続 わかりやすく書くことの難しさ

以前、国の会議の委員をしていた時、知的障害の当事者にわかりやすい資料を、と求められていたことをブログに書いたことがある。

今回、その委員会でご一緒したNさんが、僕の本を読んでみたい、とおっしゃった。
じぇじぇじぇ!
僕の本は、「すごく面白くて読みやすかった」と言う人と、「途中でさっぱり訳がわからなくなった」という人に分かれるのだ。つまり、万人受けに読みやすい文章ではない、ということである。こまった。
もちろんNさんには、会議の時にチョコなどを頂いてお世話になっているので、本を進呈したい。でも、そのままお送りすると、「さっぱりわからない」とダメだしされそうだ。なので、以前の意見書と同じように、拙著をわかりやすくダイジェストにまとめたお手紙を添えてみた。以下、その本文の一部をご紹介する。伝わるといいのだけれど・・・。え、難しいって? ううん・・・。
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<この本は何を言おうとしているのか(目的)>
この本を書き終えて、一番伝えたいこと。それは「法律や制度は変えることができる。でも、本当に何かを変えたい、と思ったら、まずは自分が変わらなければならない」ということです。
<なぜ書こうとしたのか(理由)>
国の障がい者制度改革推進会議は、本当にかなしい結果におわりました。僕たちがまとめた「骨格提言」を、厚生労働省はほとんど無視したのですよね。あの会議では、厚生労働省の役人は、いねむりをしたり、きちんと話を聞いてくれなかったり、ということがありました。そして、会議の外では「こんな会議はまとまるはずがない」と悪口を言っているのも聞きました。また、会議が終わったあと、「あんなまとめが法律になるはずはない」「夢のようなお話であり、現実的ではない」という悪口も、たくさん聞きました。
僕は、そういう悪口や、うまくいかなかった現実が、すごく悲しかったのです。その理由は、自分が心を込めて作ったものが否定されたから、だけではありません。多くの人が助け合いながら作ったものを、中身をきちんと読んで考えることなく、「どうせ無理だよ」「できっこないよ」「今の世の中では、しかたないよ」と最初から決めつけて、否定していたからでした。全く言葉も中身も相手に伝わっていなかったことが、最大のショックだったのです。
僕は「どうせ」「しかたない」という言葉が嫌いです。その理由は、「どうせ」「しかたない」と口にする人は、自分自身のことを見下して、自分自身の「あきらめ」を他人に押しつけているような気がするからです。そして、国の法律や政策を本当に変えたい、と思うのなら、まずはみんなが口にする「どうせ」「しかたない」という「あきらめ」の言葉を、どうしたら減らすことができるのか、を考えなければならないと思いました。
そこで、この本の中では、僕自身が「あきらめ」ていたダイエットや花粉症の話からはじめました。僕は他人に「変われ」と言いながら、自分自身のダイエットは「どうせ無理だ」と「あきらめ」ていたんです。でも、その「あきらめ」が、自分自身の「思い込み」であることに、気づかされました。そして、ダイエットができて、体重が軽くなると、その「思い込み」もなくなった分、心が「自由」になったのです。その話を書きながら、どうしたら「どうせ」「しかたない」という「あきらめ」から「自由」になり、心が楽になるのか、も考えました。心を不自由にする「枠組み」をどう「外す」ことができるか。その「枠」を「外す」と、どんな新しい「旅」がはじまるのか。それを「枠組み外しの旅」の中では考えました。
<どんな内容が書かれているのか(あらすじ)>
5点ほどにまとめてみました。
【①自分の「思い込み」が、世の中が変わらない最大の理由】
「どうせ無理だよ」「社会のことは、変えられないよ」「しかたないよ」
こういった言葉は、「本当のこと(事実)」ではなく、自分の「思い込み」です。でも、自分の「思い込み」は、「外せないめがね」のように、自分自身にくっついています。そして、いつもその「めがね」を通してみることが「あたり前」になっていたら、いつのまにか、「思い込み」を「本当のこと」と間違えて信じてしまいます。
僕たちの社会で「どうせ」「しかたない」と思っていることの中に、このような「思い込み」を「本当のこと」と間違えて信じてしまっていることが沢山あります。「政治家が悪い」「役人はだめだ」「マスコミは一方的だ」など、「○○が悪い」という悪口を、多くの人は言います。でも、その悪口を言うひとは、「○○が悪い、と言う僕は悪くない」と思っているのです。そして、この「僕は悪くない」というのを、みんな「本当のこと」だと「思い込み」をしているのです。
その「思い込み」こそが、世の中が変わらない一番の理由だと僕は考えました。
【②僕とあなたが「学びあう」話し合いの中から、学びの「うずまき」ができる】
では、どうしたら「思い込み」という「めがね」を外すことができるのでしょうか。それは、違う意見を持つ人と「話し合い(対話)」をする中からしか、始まりません。
ただ、「話し合い」とは、自分の意見を相手に押しつけることではありません。たとえば学校では、先生が生徒に一方的に知識や意見を押しつける、生徒はだまってそれを受け止める、というやり方がされている時もあります。これは、「話し合い」ではありません。なぜなら、先生の考えの押しつけ、だからです。福祉でも、支援者が障害者に同じように押しつけている場合もありますよね。これも、「話し合い」ではありません。
では、「話し合い(対話)」とは何でしょうか。それは、お互いが「学び合う」なかから生まれるものだと僕は考えます。僕はあなたに、僕の知っていること、考えていることを伝える。あなたは僕に、あなたの感じていること、考えていることを伝える。その「やりとり」をする中で、お互いが自分の知らない、感じていない、考えていないことを、相手から学ぶ。そのような関わりが、先生と生徒、支援者と障害者のあいだに生まれたら、お互いがもっと楽しく「学びあい」成長できると思うのです。
そして、お互いが「学び合う」関わりの中で、学びの「うずまき」ができます。うずまきとは、いろいろなものを吸い込みながら、大きくなっていきますよね。一人で学ぶのではなく、僕とあなたが一緒に「学び合う」なかで、学びの「うずまき」が少しずつ大きくなっていきます。
【③学びの「うずまき」が、「どうせ」「しかなたい」を超える力を持つ】
学びの「うずまき」が大きくなると、それはやがて僕やあなたが持っている「思い込み」を吹き飛ばしてくれます。「どうせ」「しかたない」と「あきらめ」ていたことは、僕の小さな「思い込み」に過ぎない。でも、その「思い込み」を「本当のこと」だと間違えて信じていることを、「学びあい」の「うずまき」は気づかせてくれます。
ただ、人間は弱い生き物です。自分自身が「まちがっていた」と気づかされることは、楽しいことではありません。だから、「話し合い」が嫌いで、自分の意見を押しつける「いばりんぼう」の人は、「思い込み」を「本当のことだ」と言い張ろうとします。でも、もし僕やあなたが「話し合い」を大切にして、あいての意見から「学ぼう」とするならば、このような「いばりんぼう」こそ、バカバカしいと気づけます。その「気づき」が増えると、やがて学びの「うずまき」が大きくなり、その中で、「どうせ」「しかたない」と「あきらめる」こともバカバカしい、と気づけるのです。
【④一人一人の「思い込み」という「枠」を「外す」と、「自由」な世界が見える】
僕は、学びの「うずまき」が「気づかせてくれること」を、「枠組み外し」と名前をつけました。その意味は、自分自身の「思い込み」というのは、自分が作りあげた「勝手な枠組み」であるし、その「枠組み」は「外す」ことが可能だ、ということです。
たとえば、福島で原発が爆発して、多くの人が福島に住めません。そんな中でも、「原発がなかったら日本はダメになる」という「思い込み」を「本当のこと」だと言っている人は沢山います。でも、それは「本当のこと」なのでしょうか? 少しでも減らす・なくす努力をまじめにした後に言うのなら、「本当のこと」かもしれません。でも、「原発は今すぐ動かすべきだ」と言う人の大半は、少しでも減らす・なくす努力をしようとしているようには、僕には思えません。つまり、「どうせ」原発がないとダメだ、原発があるのも「しかたない」という「思い込み」を「本当のこと」と信じて、その「枠組み」から「自由」になれない人たちだ、と僕は思うのです。
もしあなたや僕が、意見の違う相手と「学びあい」をしながら、「気づき」を増やし、学びの「うずまき」を作ることができたら、「どうせ」「しかたない」という「思い込み」を外すことができるかもしれません。そして、その「思い込み」を外してみたら、いろいろなできそうなことが見えてきます。「どうせ」「しかたない」とその先を考えなかったことについて、「自由」に考えることができると、もっと別のやり方を思いつくこともできるのです。そうやって「思い込み」を外す・減らすと、少しずつ、生きるのが楽しくなり、「自由」が増えるのです。
【⑤「思い込み」を外して、「学びあう」中で、一人一人の「個性化」が進む。そして、自分が変わることによって、社会も変わり始める】
実は、この本を書いていて気づいたのですが、「社会人」と呼ばれる人の多くが、いろいろな「思い込み」に苦しめられています。「どうせ」「むりだ」とため息をつき、「あきらめ」ているのです。「あきらめ」の毎日って、ずいぶんつまらないですよね。楽しくないですよね。
本当に「楽しもう」とするなら、周りの人がどう言っている、とか気にすることなく、自分が学びたいことを、相手からきちんと学ぶことが大切です。その「話し合い」が「学びあい」になるなかで、自分が何を本当はしたいのか、ということが見えてきます。その「本当にしたいこと」を追求するのが、少し難しい言葉ですが「個性化」といいます。
人はもともと「その人らしさ(個性)」をもっています。でも、大人になるなかで、「その人らしさ」よりも、社会の「あたり前」を大切にするようになります。すると、他の人について行くことはできても、自分一人で進んでいくことが苦手になります。「学びあい」を通じて、自分自身の「思い込み」に気づくことにより、少しずつ「どうせ」「しかたない」という「あきらめ」から自由になれます。その中で、「その人らしさ」をもう一度、取り戻すことができます。それが「個性化」なのです。
そして、「その人らしさ」を取り戻すことは、実は社会を変えることにもつながっています。
一番さいしょに、「本当に何かを変えたい、と思ったら、まずは自分が変わらなければならない」と書きました。それは「自分が変われば、社会も変わるかもしれない」ということでもあるのかもしれません。
そんなこと、前から知っているよ!という声が聞こえてきそうです。いや、もしかしたら、「難しくて、何言いたいのかわからない」と言われるかもしれません。
僕は、自分の頭で考えて、文章にしてみて、やっとこの内容がわかりました。ただ、まだまだ簡単に言うことが、上手ではありません。本の中では、もっと難しくしか、書けませんでした。すいません。
長い文章を最後まで読むのは、大変だったと思います。読んでくださって、ありがとうございました。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。