信田さよ子さんの『暴力とアディクション』(青土社)を読む。彼女の文章は大変読みやすいし、内容もめちゃくちゃ面白いのだが、読み通すのに時間がかかる。それは書かれている内容が、あまりに本質的で、かつ私たちの常識をえぐるような内容だからだ。
「家族に対する責任を放棄しながら、家長の権力だけをふりかざしてケアを要求する父親、経済的支柱である父親が倒れないようにケアを備給し支え続ける母親、両親の関心外に置かれ幼少時より親に代わって責任を負う子どもたち。父は仕事に、母は結婚生活にそれぞれ挫折し、子どもは目の前で日常的に繰り広げられる暴力的な両親の関係にさらされ続けることで、自らの存在が親の不幸の源泉ではないかという罪責観を刻印される。アルコール家族のこのような姿は、性別役割分業とプライバシー重視に貫かれた近代家族のひとつの典型のように思われる。誰もがどこかに思い当たる三者の姿ゆえに、それぞれの独立した三つの名前が必要だったのではないだろうか。」(p101)
アルコール依存症の父親と、共依存の母親、そしてアダルト・チルドレンの子ども。それぞれを別々の問題として表現するのではなく、その家族の相互作用の悪循環が極まった結果として三つの「現象」が生じている。しかも、その三つの「現象」を一つずつ因数分解して個別に理解しても、総和としての家族システムの病理にはたどり着かない。その三者がどのような関係性の悪循環に陥っているのか、どのようなパワーバランスの固着や仮の安定をしているのか。そういう力動を読み解かないと、総和としての家族の不幸をそのものとして捉えることができない。
信田さんの本はどれも、これらのダイナミクスをそのものとして捉えようとしている本だからこそ、迫力がある。しかも、それを普段の日常から切り離された「病理家族」として有徴化するのではない。そうではなく、彼女の切り口は常に、「性別役割分業とプライバシー重視に貫かれた近代家族のひとつの典型」として、「誰もがどこかに思い当たる三者の姿」として描こうとする。だからこそ、自分がアルコール依存や共依存、アダルト・チルドレンの当事者「でなくても」、その記述を読んでいたら、思い当たる家族関係の悪循環にたどり着き、グサグサときて、読みやすくて面白い文章なのに、時々に読むのが止まるのである。
「じつは日本では21世紀になるまで、家族の間に『暴力』は存在しなかった。正確に言えば、妻に『手を上げる』夫はいても、妻に暴力をふるう夫は存在しなかったのである。『法は家庭に入らず』という法の理念によって、『暴力』という判断は家庭の入り口で立ち止まらざるを得なかった。そもそも暴力という言葉には、すでに『正義(ジャスティス)は被害者にある』という価値判断が埋め込まれている。その判断の及ばない世界こそが家族だという考えは、今でも一部の人達に共有されている。家族の美風がそれによって壊されてしまうと真顔で主張する中高年男性は多い。法が適用されない=無法地帯が家庭だったのだ。」(p140)
「家庭」が「無法地帯」と言われると、何だかざわざわする。でも、この記述の通り、虐待防止法は21世紀になってようやく効力を発揮しはじめた。それまで日本に虐待や家庭暴力がなかったのではない。そうではなくて、暴力を暴力として認定しなかったのだ。妻に『手を上げる』夫に対して「暴力」だと判定しなかった。それは、信田さんによれば「『正義(ジャスティス)は被害者にある』という価値判断」と通底する。もしこの正義を被害者である妻に当てはめると、夫は「加害者」として認定される。そして、その夫による家父長的な=パターナリスティックな暴力の認定は、国家による暴力の認定と同じように否定したいことだ。それこそが「家族の美風がそれによって壊されてしまうと真顔で主張する中高年男性」の無意識・無自覚な価値前提ではないか。そういう風に彼女は踏み込んでいく。
「なぜ不介入なのか。この点に関して女性学では公的暴力と私的暴力の共謀性、密約を指摘している。国家の暴力を温存し不可視にするために、家族における暴力(家長である男性の)を温存しているという指摘である。筆者は90年代末までは目の前のDV事例とかかわりながらもがいていたが、この視点を得てまるで霧が晴れたような思いに襲われたことを思い出す。そうか、そうだったのか、と。
性暴力に関する法律も、つい最近改正されるまで明治憲法のままの内容だった。そのことにも国家の意思を痛感させられる。性にまつわる暴力や生殖に関する制度の改変において、国家の意思がもっとも露わになるのではないか。DVの問題も、加害者逮捕や公的な加害者プログラム実施には、防止法制定後20年以上経っても、相変わらず日本は及び腰なままなのである。」(p198-199)
信田さんは、独立カウンセラーとして、公的な=健康保険で支払われる精神医療の「枠外」に居続けていた。そこで「食べていく」ために、精神医療や臨床心理学だけでなく、社会学や女性学、哲学の議論もフル活用して、議論を鍛えていく。その中で、DVの被害者や加害者への自由診療のカウンセリングで見聞きする事例が、国家の暴力と相似形である事に思い至る。彼女が出会い続けてきた「夫が妻に手を上げる」というのは「私的暴力」であると認識し直すことで、「公的暴力と私的暴力の共謀性、密約」が、ありありと彼女に繋がってきた。それと共に、国家の暴力性が最も無意識・無自覚に放置されている現象として、家庭内暴力に対しての法制度の未設置や、性に関する暴力の放置を見いだした。
ぼく自身も、夫婦間のDVや子どもへの虐待の議論が90年代から増えてきたとき、社会のアメリカ化であり、アメリカと日本は違う、と思い込んでいた。でも、「ちゃぶ台をひっくり返す父」としてマンガでも映像でも絵が描かれる父親は、明らかに家庭内で暴力行使をしている。それを『法は家庭に入らず』という形で放置=無法地帯としていた、ということは、その暴力の承認や肯定である。それは、国家による暴力の承認や肯定とのパラレルであり、戦後の日本社会で第二次世界大戦を承認・肯定しようとするモーメントと相似形である、と言われると、なるほど、と頷かざるを得ない。これが信田さんの迫力である。
彼女は自由診療という保健医療の枠の外から眺め続け、現行の制度内精神医療の構造的問題をも知悉しているからこそ、自分たちはそれとは対極の有り様を目指す。
「ヒエラルキーや権威構造とは無縁のイコールパートナーとして、礼を尽くして相互リファーに徹すること。そして医療モデルとは異なる援助論に立脚し、診断的態度や用語とは別の言葉で援助する。その先に見えてくるのは、加害・被害、紛争処理・修復的司法といった問題群であり、権力・支配・植民地化といったキーワードである。」(p182)
日本の従来の制度内精神医療は、あくまでも医療モデルが基盤であり、医師が意思決定権をがっちり握り、看護師やソーシャルワーカー、臨床心理士はパラメディカル、コメディカルという名称で、脇役として据え置かれている。でも、彼女はその枠外を主戦場として、医師に頼らず意思決定の主体者であろうとした。その時に、自分の決定権を独り占めせず、「ヒエラルキーや権威構造とは無縁のイコールパートナーとして、礼を尽くして相互リファーに徹すること」を大切にしてきた。だからこそ、彼女の本を読めば、「医療モデルとは異なる援助論」が見事に言語化されている。そして、その医療モデルではない援助論には、「加害・被害、紛争処理・修復的司法といった問題群であり、権力・支配・植民地化といったキーワード」が基盤になる。
そして、僕が信田さんの本に惹かれ続けるのは、この問題群やキーワードである。精神病を個人の問題として医学モデル的に固着させれば、見えてこない問題群やキーワードである。でも、アルコール依存、共依存、アダルト・チルドレンという個別現象の関連性や連関性を、総体としての家族ダイナミクスとして眺めると、家族にそのような力動性を与える社会の歪みを捉えざるを得ない。それには、「権力・支配・植民地化」といったこの社会の抑圧体系との接点を見いださざるを得ないし、その歪みを減らし、弱毒化していくためには、治療ではなく「「加害・被害、紛争処理・修復的司法」という問題群との接点を見いだしていく必要があるのである。
というわけで、彼女の本は一冊読むと、また別の本を読みたくなる、という強烈な効果があって、これからまた何冊も注文して読み進めようと思う。重い議論で、読むのはしんどいけど、この社会の生きづらさ、生き心地の悪さの根底を理解するためには、信田さんの論考は決して外すことは出来ないことだけは、確信を持っている。