お盆と米寿

 

お盆は島根の山間の温泉地にいた。祖母の米寿のお祝いをするためだ。温泉宿で泊まった翌日、祖母を自宅まで送り届けた後、達成感で疲れがどっと押し寄せていた。

発端は一年前に遡る。毎年夏に実家に帰っている母から、祖母の体調がかなり悪く、精神面でも落ち込んでいる、という話を聞いた。なんでも躓いて骨折し、入院した後に調子を崩し、自宅に帰る頃には、すっかり歩けなくなっていた、という。気になって昨年10月の岡山での学会発表の「ついで」に島根まで足を伸ばす。それまで農作業や家の事を一人でやっていた祖母は、「できない」自分が本当に情けなく、哀しい様子で、私の顔を見るなり泣き出す状態。「ほんに、なんもできんくなってしもうて」と言う姿に、遠くにいる自分には何が出来るのだろう、とずっと頭の片隅で探索が続く。そして、同居しているおばさんから一言。「来年、ばあさんは米寿。米寿の会って、孫がするもんらしいで」。これや、と閃いた一筋の光。「ばあちゃん、来年の夏には米寿の会をするから、それまでに元気になってね」。そして、米寿プロジェクトが始まった。

祖母には、母を含めて4人の子供に10人の孫がいる。僕自身は、二人目の娘の長男である。そこで、この2月には、西宮での調査の「ついで」に島根まで出かけ、「4家長男孫会議」。地元に住むスグル君、広島に住むオサム君、ヒサシ君と、遠く離れた僕が集まって、会場や大まかなスケジュールを決める。なんせ、開催日がお盆の8月14日なので、宴会場は一番かき入れ時。30人ほどの会場なので、さっさと予約しないと取れない。色々候補を考えたが、祖母の実家までバスで迎えに来てくれる、浜田市の温泉宿に会場を決定して、以後、会の準備を進めた。

で、先週末が本番。ロジスティック関係を全て優秀なる官僚のヒサシ君が手配してくれていたので、僕の役割は、餅は餅屋!?の総合司会。子供や孫からのメッセージなどで、あっという間に宴会の時間は過ぎていく。食事が済んだ頃から、アトラクション。M先生が自前で持っていたプロジェクタをお借りし、今回は新幹線で出かけたので島根まで送ったのだが、これがスクリーンともに大活躍。ヒサシ君は祖母の家でアルバムを借り、祖母や祖父の若かりし時代から、子供、孫との写真まで、見事にスライドショーにしてくれたのだ。祖母はスクリーン前の「特別席」に陣取り、大喜び。こうして、あっという間に米寿の会は無事終わったのだった。

会の終了後、温泉宿に、母を含めた三姉妹と祖母、そして私たち夫婦の二組が残って、その日は投宿。久しぶりにばあちゃんとも話せて良かった。やはり、一家の長老として、おばあちゃんとして、嬉しさと自信を持った笑顔に出会えたのが、何よりの喜び。どんなに障害が重くても、高齢になっても、病気になっても、役割と尊厳が人間には大切。使い古されたこのフレーズを、まさに我が事として実感した時間でもあった。

そして、もう一つの忘れられない思い出が、翌朝の出来事。その温泉宿はバリアフリーではなく、二階の部屋から一階までばあちゃんとおぶっておりることに。最初は祖母が怖がっていたが、いったん僕の背中に収まると、安心したようだ。「まさかひろっちゃんにおぶってもらうとはのう」と言いながら、喜んでいる感触が、背中を通じて伝わってくる。後で妻に聞いたら、祖母は満面の笑みだったとのこと。昨日のスライドショーの最後に、偶然にも祖母に背負われた二,三歳の泣き面のひろしくんの写真があった。三〇年後、今度は逆に背負う機会をもらった。何とも、感慨も一塩、である。

別れる際、「次は九〇歳のお祝いね」と伝えると、またもや満面の笑みの祖母。こういう集いは、実に大切にしたい、と思いを新たにして、お盆の人いきれに戻っていったのであった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。