「人は、自分のわかるようにしか、わからないのである。わからないことについてのわかり方は、自分のわかるようにわかるしかないのである。それで自分のわかるようにしかわかったことになっていないということが、わかっていない。これが、たいていの人のもののわかり方である。だから、いきなり現れたその人が語る聞き馴れない言葉、わけのわからない言葉も、やっぱり自分のわかる仕方でしかわかることができない。」(池田晶子『人生は愉快だ』毎日新聞社、p39)
仕事で訪れた静岡のホテル。昨晩のアルコールを流すべく朝風呂に浸かりながら、上記のくだりを読んで、ハッとさせられる。確かに、自分自身、「自分のわかる仕方でしかわかることができない」し、そのことが「わかっていない」。
他人から聞いて、取材して、本を読んで、現場を訪れて、自分の頭で考えて・・・「わかった」つもりになっている。だが、その「わかった」とは、大概において、「自分のわかるようにわかる」という限定された理解である。自分の殻を破って、事象そのものへ近づくような、量子力学的跳躍のような、一皮むけた「わかった」は滅多に訪れない。それより、自分の殻の中に、未知の事象を押し込める、枠組みの中での理解である。自分の殻や枠組みそのものへの疑いを持つことがなく、その殻や枠組みの内部に取り込める未知だけを既知として部分的に導入しているのである。創造のない加工貿易。近視眼的な自己の体系の正当化には役に立っても、中長期的な「自分のゆがみ」の補正には役立たない。むしろ、自分の殻の中に「わかる」を押し込めることは、もともと持つ「ゆがみ」を強化するだけなのかもしれない。
未知の何かに触れたとき、自身の「ゆがみ」そのものと向き合うことに、苦しみしか感じないか。あるいは、普段無意識下に押し込められた「ゆがみ」への気づきと喜べるか。ゆがみと「わかる」瞬間に、彼岸と此岸のどちらに向かうのか。その選択の積み重ねの結果、今の自分がいる。そのことの重みを感じる一節だった。