胆識を体感するには

 

連休明けの1週間、寒暖の差も激しく、木曜日を迎える頃にはぐったりしていた。
で、土日は仕事なので、金曜日は「臨時休業」。裁量労働制なので、この辺の加減が出来るところが良い。教員になった当初は平日に休む、ということが出来なくて、でも研究会、講演、調査などは土日に多く、結果、休みなく働いてかえって平日の能率を下げる、ということを繰り返していた。なので、ようやく最近、オン・オフスイッチをはっきり切り替えられるようになり、多少能率もあがる。

で、能率を上げるために!?、休みで訪れたのは、八ヶ岳の麓のアウトレット。今回はパートナーが所望され、お昼過ぎから出かける。今回は僕は買うつもりはなかったので、文庫本を抱えて、青空の下で読書。南アルプスの山々を眺め、初夏の風と陽射しを浴びながらノンビリしていると、一週間の気持ちの張りがほぐれ、バカンスをしているかのようなリラックスが出来る。で、読んでいたのは、バカンスには似つかわしくない!?一冊。

「一つの問題について、いろいろな見方や解釈が出る。いわゆる知識である。しかし、問題を解決すべく『こうしよう』とか『かくあるべし』という判断は、人格、体験、あるいはそこから得た悟りなどが内容となって出てくる。すなわち見識である。ところが、見識だけでは未だしである。見識が高ければ高いほど、低俗な連中は理解できぬから反対する。この反対、妨害を断固として排除し、実践する力を胆識という。いうなれば、決断力や実行力を伴った知識や見識が胆識である。学問は実にその胆識を養うところにある。」(伊藤肇「現代の帝王学」講談社文庫、」p86)

とある著名人が、若くして親から会社を継いだ時に一番参考になった、というので、古本で入手してみた一冊。古今東西の箴言と、名経営者の格言を織り交ぜている「自己啓発系」と言ってしまえばそれまでだが、昨今の自己啓発本との違いは、その掘り下げ具合。論語や十八史略などの古典の世界が、まだリアルに読者に訴えた最後の時代なのだろうか。出てくる経営者達も、そういった古典を自身のバイブルとして、あるいは難局を乗り越える際のぶれない指標として用いている。この本が出たのが1979年だから、たった30年前。それまで漢文的素養が当たり前のように日本に残っていたのに、その伝統がこの30年で見事に消えつつあるとしたら、実に寂しい。大事な筋の一本が、日本人の中から抜けていったかのよう。筆者の言うように、「知識」や「見識」があっても、「胆識」なき日本人が昨今多いのも、そういう古典との巡り逢いのなさが、その理由にあるのではないか。

最近、大学で担当している1年生向けの補習授業では、「声に出して読みたい日本語」(斉藤孝著、草思社)を用いて、みんなで音読している。「大学で朗読?」と思われる方もいるかもしれない。でも、高校までで、そういった古典との出会いに目や耳を閉ざし、つまんねえ、とシャッターを下ろしてきた学生達のエンパワメントには、力強い日本語が大きな励みになる。正直僕自身も、斉藤氏の一連の著作を「有名人だから」とさけてきた。だが、大学での補習授業(リメディアル教育って奴です)に向き合うようになってから斉藤氏の著作を読み始め、そういう臆断を反省。「教え育む」という営みと真正面から向き合って来た人の編み出した様々なメソッドは、使える、を超えて、一つの人間学として学びが多い。

日本語の暗唱や反復練習を重視した氏の教育論は、スポーツで秀でた能力を持つ学生達の勉強面のサポートの上で、彼ら彼女らの得意なメソッドが使えるため、実に役立つ。実際今年はそのリメディアル授業において、最後10分間、全員立ち上がって大声で、「祇園精舎の鐘の音・・・」なんて叫んでいる。担当する柔道部の1年生達も、身体を揺らして叫んでいる。そういった古典の「体感」の中で、少しでも「胆識」が育まれないだろうか。それが、担当教員の切なる願いでもあるのだ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。