運命へのチャレンジ

 

Duty first, Self second! (大儀が第一、私は二の次)

連休中に映画館で見たクイーンでの、エリザベス女王の台詞。久々に質の良い心理劇を見た。ダイアナ妃の突然の死亡から1週間、自身の信念に基づき声明も哀悼の辞も発しない女王に対して、国民的なバッシングがエスカレートしていく。女王は、滞在中の別荘で、マスコミの膨大かつ一面的な報道に心を痛め、就任したてのブレア首相は、最初冷ややかに見ていたが、やがて女王の信念に気づき、共鳴の考えを持ち始める・・・。もちろんこの映画もフィクションだが、一方でマスコミ報道とい事実の切り取り方(=フィクション)についても考えさせられた作品であった。私たちが「一次情報」として鵜呑みにしやすいマスコミ報道が、いかに本当の情報の中から取捨選択と価値付けをした「二次情報」であるのか。一端流れ始めたマスコミ報道という流れが、いかに暴力的な色彩を持つのか。その中で、どういう決断を、どの場面ですることが、筋を通すことになるのか。

この映画を見ながら、大阪からの出張帰りにの汽車の中で読んでいた一節を思い出していた。

「人生のすべての決定が賭けである。どのような行動をとるにしても、その行動が将来どのような結果をもたらすかわからない状況で、可能な行動の中から1つを選ばなければならない。」(繁桝算男「後悔しない意志決定」岩波書店、p42)

クイーンの選択、でなくとも、私たち一人一人の「人生のすべての決定が賭けである」。その際、自分の今まで守ってきた価値観を固守する選択が、時として「時代のムード」というものと合わずに、大きな反発を催すこともある。それに対して、全てを引き受ける立場という重責であればあるほど、あるいはこれまで重責を担い続けてきた期間が長ければ長いほど、その「可能な行動」の選択肢の幅は狭まり、結果として自身の「賭け」のレートは高まり、選ぶ事への厳しさ、しんどさも増えていく。それを意識して、なおかつどういう「賭け」が求められているのか、この映画を見ながら、そんな事を考えていた。

また、この徹底的に論理的で、僕の文章とは違い無駄な形容詞や接続詞の一切ない、シンプルで骨太なテキストには、多くの名言が内包されている。そして、そういう名著は、別のある名著を思い出させてくれる。

「社会科学的認識の芽がわれわれの中で育ってくる最初の結節点は、われわれ一人一人が決断という行為に迫られることです。決断、賭けということであって、はじめて事物を意識的かつ正確に認識すると言うことが、自分の問題になってきます。(中略)事物の認識が深まれば深まるほど賭けらしい賭けができる。逆に言うと、深い賭けが出てきて、はじめて、主観とか希望的観測ではなくて、客観的な認識が自分のこととして出てきます。」(内田義彦「運命へのチャンレンジ」『社会認識の歩み』岩波新書、p44-45)

統計学的に言うか、社会思想史の側面から言うか、の違いはあれど、二人は同じ事を言っている。「賭けらしい賭け」をする主体とは、徹底した「事物の認識」を深め、それが「主観とか希望的観測ではなくて、客観的な認識」にまで高まっている。そういう深い認識があるからこそ、ぶれない決断が可能となる。

「一貫して安定した効果評価は、一貫した価値観の反映である。」(繁桝算男、前掲著、p98)
「後悔しないためには、変化しない大きな目標をもつべきであり、また、能動的な意志決定の機会をなるべく多く持つべきであろう。」(同上、p101)

常に「私」よりも「大儀」を優先させる、これも「一貫した価値観」である。また、「変化しない大きな目標」とも言える。そういう視点を持っていると、「決断という行為に迫られる」場面でも、「一貫して安定した効果評価」を持ち続けることが出来る。このぶれない視点があるからこそ、「深い賭け」が可能になる。そうした「結節点」における、主体的かつ本質的で、さらには「能動的な意志決定」のくり返しの中で、人々の信任や評価というものも、少しずつ積み上がっていく。それが「伝統」という無形のものを構築していく。

「伝統の価値を高唱する保守主義者はその価値の源泉を超越性、すなわち伝統が有限な人間を超出しているところに求めがちであるが、子細に眺めれば、伝統もまた人間のさまざまな活動の産物であり、問題解決のプロセスを経て形成されたものであることがわかる。伝統もまた『主体』的に形成されてきたのであって、自然の形成物ではない。」(間宮陽介「丸山真男」ちくま学芸文庫、p170)

そう、今日見た映画の中で演じられていたのは、クイーンという「有限な人間」が、「問題解決のプロセス」の中で、一貫した価値観を保持しながらも、「主体」的にその時点で深い賭けをし続けた、結節点におけるドラマだったのだ。それは「伝統」という「超越性」で押し切ることが不可能な、まさに「その行動が将来どのような結果をもたらすかわからない」分岐点における賭けの場面での、「能動的な意志決定」の瞬間に関する優れたフィクションだったのだ。

もちろん、事実はどうだったのか、はわからない。でも、それを見る私たちにとって、むしろ大切なのは事実の判定ではない。そうではなくて、そこでどのような選択がなされ、何が選び取られたのか。その際、自身の中でどのような価値観が大切にされ、守り続けようとしたのか。それが、賭けにどう反映されたのか。その部分が大切なのだ。だからこそ、映画のラストシーンでのクイーンの発言が、胸にしみるのである。

Duty first, Self second!

私自身も、これから社会的な立場で仕事をする機会が増える中で、この矜持を持ち続けることが可能なのか。賭けの主体として、しみじみ自分に問い直していた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。