「当たり」をもたらす整理整頓

 

昨日、前回のブログを見直していて、そういえば・・・と一冊の本を思い出した。

「システム社会の現代的位相」(山之内靖著、岩波書店)

山之内先生の本は、出た直後に気になって買っておきながら、今まで「積ん読」本の一つだった。僕の部屋にはそうした「寝かせ本」がたくさんある。この本も奥付を見たら96年だから、気がつけば10年近く放ったらかしておいたことになる。スイマセン。でも、何気なくアマゾンで見たら、古本に9800円の値が付いている。やはり買っておいて良かった。こういう「積ん読」本は、買った当初には読まなくとも、こうやってRight time, right placeでひょっこり出会い直せることが良い。今日、いつものように仕事の後の「風呂読書」し始めて、序章のところで既にしびれてしまった。

「環境問題にかかわる運動であれ、家父長制にたいする女性の闘争であれ、あるいは差別されているエスニック・グループの闘争であれ、それらが社会的に差別されているという位置の落差をエネルギーとして展開され、したがって、社会システムの内部において市民としての一般的に平等な処遇を期待し要請する運動であるかぎり、結局はシステムの内部において制度化されるという道をたどるであろう。」「そうした旧来型の社会運動は、それらが『成果』を獲得すればするほど、現存の社会システムを強化し、あるいは現存の社会システムの矛盾を拡大する」(同上p13-14)

この鮮やかな切り口は、読み手にとってゾクゾクさせられる切れ味の良さであり、また問題群の核心をついている、という意味で深く自分の内奥に突き刺さる視点である。実はまだ序章しか読んでいないのだが、もうこの氏の視点に釘付けになりつつある自分がわかる。久しぶりにこういうズバッとした視点と出会うと、改めて理論の持つ魅力を再確認すると共に、「そりゃあ古本屋でそれくらいの値が付くよね」と変に納得してしまう。「旧来型の社会運動」が追い求める「成果」というものの有り様に、何とも言えない不全感を感じていた僕にとって、氏の分析がすごく楽しみだ。ただ断っておきたいのは、山之内氏はこの種の社会運動が無駄だ、と言っているのではない。そうではなくて、追い求めて、運動しているうちに、気がついたら抵抗しているはずの当の社会システムそのものの「強化」に「結果的に」繋がっていることの問題点について言及しているのだ。これは中野敏男氏の「ボランティア動員論」批判につながるものであろう。障害者の権利獲得の「運動」について考える際も、この視点をしっかと持っておかねば、当の社会システムそのものの改善どころか、その矛盾の強化に繋がりかねないのである。読み進めるのが楽しみだ。

ちなみに、実は昨日も「当たりフレーズ」と出会うことが出来たので、これもご紹介しておこう。

「『自由である』ような私たちは、それがために他者の視線に晒される存在である」「他者の視線に晒されることが苦しいのは、私が他者にどのように見られているのかを知ることができないから」「私が『自由である』としても、他者の目に自分がどのように映っているのか、他者は自分をどう評価しているのかについて完全にコントロールすることはできないのだということ、そして、それにもかかわらず他者の評価を躍起になってコントロールしようとしているとき、そのとき問題とされている他者は、自分の心の中に内面化された幻影にしかすぎないこと」(数土直紀「自由という服従」光文社新書p225-226

実はここしばらく、数土氏の言うところの「自分の心の中に内面化された幻影」に自分自身が苦しめられていて、しんどかった。つまり「他者にどのように見られているのか」「どのように見られたいか」という「理想像」と「現実」のギャップに苦しんでいた。でも、その理想像なるものも、本当に自分が望む理想像であれば、まだいい。そうではなくて、「自分が作り出した他者評価という幻影の内面化」、という面で、ねじ曲がった、かつ実体的なモノではない変な「理想像」であったが故に、しんどかったのだ。ようは、本当に自分がしたいこと、ではなくて、「こんな風になったら人に尊敬してもらえるだろうな」という類の、実にくだらないモノサシで評価して、そこに至らない自分にウジウジしていた。こう書いてみてつくづく思う。つまんない、つまんない。

それがつまんない、と断言できるのは、「自分の心の中に内面化された幻影」を「躍起になってコントロールしようとしている」という構造が、数土氏の指摘からわかったのだ。実にちっぽけなことで悩んでるじゃん、って。そんな暇が合ったら、目の前の仕事をちゃんと形にすることにこそ、エネルギーを注ぐべきだって。

まあ、これは数土氏の本を、たまたま部屋の大掃除をした後に読んだから、ということとも関連する。だいだい僕の場合、机や部屋が荒れているときは、生産的にはなれない。特に机の周辺が荒れている際は、まともな思考にはなれない。すごくシンプルかつ当たり前のことかもしれないけれど、心が乱れている時は、部屋も乱れている場合が多い。だから、昨日は、海外出張前後に散らかしっぱなしになっていた自宅の整理を時間をかけて徹底的に行っていた。そして、机と仕事部屋が綺麗になった後、数土氏の本を何気なく読んでいたら、最後のところでグッと来たのだ。そして、その後にふと、山之内氏の本を思い出したのである。やはり、部屋の体制として何かを受容できる環境が整ったからこそ、スッといろんなことが入ってきたのだ。

研究室も、机周りは大部整理できていたので、おかげで今日は新たな原稿の仕込み作業がはかどった。でも、新しく本棚を入れた関係で、机の周り以外はまだ散らかっている。きっと今もがいているもう一つの難題を解決するためにも、まずは明日あたり、この「身辺整理」から着手した方が、案外早くものは片づきそう・・・そんな予感がしている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。