変容過程の支援とは?(増補版)

 

(*さっき研究室を掃除していたら、足したい資料が出てきた。どうも酔った頭で書いた文章は明らかに舌っ足らずなので、いっそのことゴソッと書き足し直し、タイトルまで変えてしまいました。 4月20日午後7時)

今年も1年生の授業を担当している。

大学1年生、というと、フレッシュマン、というイメージだが、一方で彼ら彼女らはほんの少し前まで「高校生」。なかには「高校4年生」的意識をお持ちの方もいらっしゃる。だが現実はというと、大学という機関に関わりを持たれた方ならおわかりのように、大学と高校の落差、は、中学と高校の落差、とは大きく違う。職員室がない、先生からの学生へのコミットが極端に少ない(放ったらかしに近い)、授業は学生が選べる、45分単位から90分単位、受験勉強からそれ以外の教養や専門授業に・・・などなど。この落差を、自由の謳歌、と喜ぶ人もいるけど(僕もその一人だった)、自由であるが故の「不安」を感じる学生も少なくない。(この辺のことは、数回前に紹介した数土さんの光文社新書「自由という服従」がうまく伝えてくれている)

確かにこういう「不安」は僕も大学1年生の時に感じていた。切り離されたような、所属感のない、寂しい雰囲気・・・。だが、それから12年、教員サイドで眺めてみると、何だか今の学生さんの方が、僕らよりかなり「真面目」過ぎて、大きな変容過程の真っ直中への「不安」をかえってより一層感じているような気がする。ま、ただ比較している自分の出身学部(人間科学部)のカルチャーが「なんとかなるだろう」という「ええかげんさ」が結構支配的だったからかもしれないが、それと比べると、法学部という学部がなせるわざなのか、わが大学のカラーなのか、多くの学生が熱心かつ真面目に大学の授業に取り組もうとされている。それは大変良いことなのだが、その際、あまりにも高校までのカルチャーと大学のカルチャーが違っていて、その文化変容に関する不安が増大し、ゆえにギアチェンジ期の「危機」に直面しておられる、そんな風に見受けられるのだ。

そんな1年生の皆さんに、教員としてどんな変容過程の支援していけばいいのか、が目下の課題である。

いろんなやり方の可能性があるだろう。例えば、授業の進路やレベルを高校と同じ水準に合わせる、というのも、アクセシビリティを保障する一つの案だ。ただ、この案を実際に授業に導入され、学生からもわかりやすいと定評のある先生にお聞きしたところ、高校と同水準であれば、教員側として伝えたいことの半分から3分の1以下しか伝えられず、結果として大学の講義として提供する水準としては低くなる、というジレンマを抱えておられた。一方、昨年の1年生アンケートデータを見ていると、伝えたい何かを教員が満足できるだけ伝えることを重視しすぎて、つまり高校を出たての学生の「取っつきやすさ」や「わかりやすさ」を結果的に無視するような授業形態では、「わかんない」「ついていけない」「絶望的だ」といった感想がもたらされる。つまり、わかりやすすぎても、内容伝達を重視しすぎても、どちらかに偏ることが、結果的に学生にとって「不十分」という結論をもたらすのだ。

じゃあ、どうすりゃいいねん?という疑問につながる。この問題に対する、現時点での僕の見解は次の通り。

前々回のコラムで述べた「変容型様式」(=課題提起型教育)に従って、まずは学生の興味関心に火をつけることが一番大切。そして、ともした火と、自分のこれまでの経験や考えとの間で対比が出来るチャンスを与え、そこから「自発的な学び」へと繋がるようなアシストが教員側に必要。でも、これはそんなに大変ではない。というか、あんまりアシストが過剰すぎてもいけない。いったん学生自身が、他者の押しつけでなく「自分事」となるような課題を発見できれば、自ずとその課題を解決したい、そのためにはどうすればいいんだ、という「自発的学習」へとつながっていくのではないか、そう感じているのだ。はじめの一歩、の支援さえ出来れば、あとはスッと船出が出来るはずである。この「船出」の「変容過程」について、さっき研究室を掃除していたら、次の記事をめっけた。

「15~25歳くらいにかけて、人は誰でも貪るように、本物に触れたい、魂を揺さぶられたい、巨大なものを求めたい、という思いを持つ。つまり、感動を渇望するのです。その時期に本質的なものに触れて心を揺り動かされた経験ができるか否かで、本質を求めようとする好奇心や探求心がつくられるかどうかが決まります」(丹羽健夫「心に火がつけば走り始める」WEDGE 2005 5月号)

昨年の連休中、静岡からの新幹線が満席で、泣く泣く自腹で乗ったグリーン車の車内誌で出会った「めっけもん」の記事。1年ぶりに丹羽さんの考えを読み直して、「そうそう」と思っていたのだ。

例えば昨年の2年生のゼミでは、甲府のバリアフリーというトピックに焦点化し、自分たちで調べ、まとめ、それを中高生に伝え、全てを冊子にまとめる、という課題に取り組んでもらった。課題を設定する前の授業では、この丹羽さんの記事を含めて授業中色んな意見を配ってディスカッションをしてみたが、どうもいまいち「机上の空論」で盛り上がらなかった。でも、テーマを定め、自分たちで調べ、まとめる中で、ゼミ生ひとりひとりが何かに触れ、揺さぶられはじめたのだ。そして、いったん火がつけば、柔軟性の高いこの年代の若者達は、どんどん加速度的に自分たちで炎の勢いを高め合い、友人同士で学び合いながら、どんどん気づき始めた何かを深め、エッジを効かせていく。その変容過程に立ち会い、ゼミ生達がまさに「心に火がつ」き「走り始め」た瞬間に立ち会えた喜びを、僕自身は感じていたのだ。

つまり、大学という場で何かをパスするなら、それもゼミという少人数の場なら、今の僕なら、一方的な教師生徒の大量情報伝達、という形式を取らない。そうではなくて、一人一人の学生さんが20年近くかけて培ってきた経験や個性の固有性に着目し、どうしたらその部分が「揺り動かされ」るか、に着目する。そして、彼ら彼女らの「感動を渇望する」魂に直接届くような内容・表現形式の「課題提起」を行ってみるだろう。そうすれば、揺り動かされ、刺激をうけた個々人の中で、新たな学びへとつながる知の変容、あるいは学生の「知りたい」という欲望へ火が灯り、その火が個々人の「固有性」と化学反応を起こして、その人なりの「探求」へと繋がっていくのではないか・・・。

新米教師のタケバタとしては、昨年1年のもがきのなかで、こんなことを実感し、今年のゼミの仕掛けへとつなげようとしている。

詰め込み型でも、学生主体でも、教え方がどうであれ、つまるところこちらが伝えようとする「知識」や「智恵」を活かすも殺すも学生次第。ならば、彼ら彼女らが大学の学びを血肉化するため、つまり彼女ら彼らが「本質を求めようとする好奇心や探求心」を活性化させるために、大学教員の私たちが携わり、尽力できる「変容過程の支援」って結構たくさんあるんじゃないか。そんなことを感じている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。