制度の硬直性を問い直す精神療法

4月に読書会で『ホモ・サケル』を読んだ際、市民権が剥奪された「二級市民=市民権なき人間」が収容されている精神病院や入所施設では、支援者が虐待者に簡単に変化しやすい、という議論になった。その延長線上で、ではどうやったらそういう虐待的環境を減らす・なくせるのか、という問いが浮かんだ際、若い友人が「それって制度を使った精神療法がやっていることではないですか?」と教えてくれた。

そこで、これまで避けてきた、制度精神療法の本を読んでみることにした。

なぜ避けていたのか。実は師匠大熊一夫がどこかで、「de-institutionalizationを脱制度化と訳すのはおかしい。脱施設化でなければならない」と書いているのを読んでいたからだ。師匠はイタリアのバザーリア達の脱施設化をずっと取材し続け、施設の論理をぶち壊し、精神病院を解体した上で地域精神医療のシステムを作り上げたトリエステの仕組みを熟知している。その師匠からすれば、制度精神療法はフランスのラ・ボルト病院という精神病院が舞台である。精神病院を温存していては、施設の論理がそのまま残るではないか、という批判である(と僕は理解していた)。そして、それに同感していた。

だが、このラ・ボルト病院をつくったジャン・ウリの本を読むと、それとは違う文脈が見えてきた。

「きちんと明確にしておかなくてはならないと思われること、それはこれがグループの精神療法ではなく、精神疾患を患う人を治療するために打ち立てられなくてはならない特定の文化的環境を—脱疎外に向けて—効率的に機能させるということです。結論としてひとつの例がこの概念をごく簡潔に例証してくれるでしょう。医師のグループと看護師のグループの間にある関係のあり方は、そのままのかたちで、看護師のグループと病人のグループの間に伝達されるということです。(略) もし医師が看護師に対して脱疎外的関係—表現の自由、<他者>の尊重、共感関係、現実という水準へのたえざる置き換えなど—を繰り広げるならば、看護師は病人に対して同じ関係を展開するようになるでしょう。そのとき看護師のグループは、医学的審級と病人の間の媒介システムとして現れるのです。」(ジャン・ウリ『精神医学と制度精神療法』春秋社、p65-66)

この記述を読んで、ラカンや難解なフランス哲学を使うウリの、治療者としての洞察力を感じたし、「これなら僕もわかる世界だ!」と直観した。

僕は以前、トラウマ化された精神病院について書いたことがある。精神病院の中で治らない患者を目の前にしていると、医療者の側も専門家の自分が治せないという見たくない事実に直面して落ち込んだり暴力性が表れたり現実を否認・解離したりするようになり、「沈殿患者」が重なると病棟自体がトラウマを持ち、病院自体も隔離収容のトラウマを引きずり・・・と「トラウマの並行プロセス」に陥るのではないか、という仮説である。

60年以上前にそのことに気づいていたウリは、病院組織環境がトラウマの並行プロセスを脱却し、脱疎外に向けて変わるためには、患者ではなく病棟という「特定の文化的環境」をこそ、変える必要があると見抜いていた。そして精神病棟を「効率的に機能させる」ための象徴的な事例として、医師—看護師の権力関係に言及する。「もし医師が看護師に対して脱疎外的関係—表現の自由、<他者>の尊重、共感関係、現実という水準へのたえざる置き換えなど—を繰り広げるならば、看護師は病人に対して同じ関係を展開するようになるでしょう」というのは、現実がその逆で、医師は看護師の表現の自由を認めず、看護師という<他者>を尊重せず、共感的な関係も築こうとしていなかったのだ。これは60年前のフランスだけでなく、今の日本の精神病棟でも残存してはいないか。そして、このような医師が看護師を支配し、植民地的に支配をする関係性を築くなら、看護師は患者を同じように植民地的に支配するだろうし、それでは患者は治らない、と喝破しているのである。これは、患者と看護師と医者が対等に病棟内で議論するアッセンブレアから病院改革をはじめたバザーリアと通底する視線だと感じた。患者を変える前に、治療システムそのものを変え、治療者自らが変わらなければならないのだ、という点において。

この視点にたって、ウリは病院内の様々なシステムを点検しはじめる。

「たとえば、事務機構のような構造の修正は、神経症的な状況の行き詰まりを打開する意味の諸効果を引き起こし、これこれのサイコドラマや個人的治療よりも大きな精神療法的効力を持ちうることが確認されている。(略)たいへんありふれた経験的な事実によって、私たちはどうしても次の様に考えざるをえなくなった。すなわち、あるセクターの、非常に物資的な管理において構造論的な変更を行う際には、他のセクターの精神療法的アプローチを、それと同期する形で変更しなくてはならないということである。」(p225)

「組織は生き物であり、バタフライ効果的にある部分の影響が組織の別の部分にまで伝播する」という補助線を入れると、この発言はクリアに見えてくる。

この前の引用で、医師が看護師を植民地的支配していたら、それは看護師と患者の関係性にも全く同じように転移する、と述べた。そうであるならば、事務機構が抑圧的であるか脱疎外的であるかは、病棟運営や患者と医療者の関係性にも影響を与える、というのである。僕はこれにも深く納得する。

博士論文を書いた際、京都中の精神科ソーシャルワーカーに悉皆調査をして、その特徴をまとめよ(それができなければ君に博論はない!)と師匠に言明され、117人のワーカーにインタビューをして、それをまとめた(それは20年経ったのでPDFで公開した)。まだZoomという便利な取材装置とは無縁な時代だったので、電話取材の2,3名をのぞき、全ての人の職場に訪問した。すると、同じ精神科ソーシャルワーカーでも、病院内で全然違う位置づけをされていることがわかる。

「相談室」などの名称で独立の部屋を持っている人。事務セクションの端っこの「物置」のようなスペースに半個室を与えられている人。事務職員と同じ場所・机で独立性が全くない人・・・。そういうワーカーの空間的位置づけは、その病院組織の優先順位や、その中でのソーシャルワーカーの仕事を深く規定していると改めて感じた。例えば事務職員と同じラインに属して事務長から仕事を細かく指示されるワーカーは、退院支援は死亡退院や転院支援のみで、病棟回転率を気にし、入院患者が9割を切らないように「患者集め」の営業をするのが仕事だ、といっていた。一方、事務ラインから独立し、医者や看護師からも一目置かれてチーム支援に取り組んでいたワーカーは、退院支援だけでなく、地域での新しい社会資源づくりに奔走していた。

さらに言えば、例えば虐待事件を起こした神戸市の神出病院の第三者委員会報告書を見ていると、滅多に病院に来ない理事長が月収(年収ではない!)1000万以上もらっていたとか、医者がろくに診察できていないとか、病棟の空調が壊れて冬はタオルが凍るとか、営利中心主義で病棟のマネジメントや組織運営が全く体をなしていない現状が浮かび上がってくる。コロナでクラスター感染が流行った精神病院も、「大部屋に陽性患者を集め、急遽大工道具で鍵を設置し、外から南京錠をかけていた。ナースコールもなく、居室内の囲いのないポータブルトイレで用を足すことが求められ、水などを求めて患者が絶叫していたという」くらいの、組織的不全だった。

そのような構造を見ていると、「事務機構のような構造の修正は、神経症的な状況の行き詰まりを打開する意味の諸効果を引き起こし、これこれのサイコドラマや個人的治療よりも大きな精神療法的効力を持ちうる」ということも、深く頷く。治療がまともにできる前提は、人間関係が円滑でまっとうな事務や病棟、組織構造が必要不可欠だ。それに欠けている状態では、そこは収容施設であっても、治療施設とは言えないのである。そして、そういう事務機構や病棟構造の構造の歪み修正することなく、神経症的な状況が行き詰まった患者を目の前にすると、それを患者の無為自閉・陽性症状など、患者のせいにして誤魔化している病院が少なくないのではないか、と疑いたくなる。

これほどまでにこの本が僕に迫ってきたのは、ウリの難解な文章を読みやすい日本語に翻訳してくれた訳者の能力に起因する部分も多い。フーコー関連の著作や翻訳で有名な廣瀬浩司氏が訳者の1人として後書きでこう書いている。

「ここで言う『制度化された諸環境』とは、医療関係者やカウンセラー、家族や友人を初めとする、患者を取り巻く人々のこと、そして患者たちが歩き回り、たがいに交流するさまざまな物質的・非物質的な場の総体のことである。病院の施設のことでも、それを規制するさまざまな規則のことでもない。こうした環境を少しでも揺り動かすにはどうすればよいのか。患者の回りを『取り巻くもの』において、情動やものや言葉の『交換』をどのように最大限に加速すればよいのか、これがウリの問いなのである。」(p374)

精神病患者は、「社会の疎外」と「狂気の疎外」という二重の疎外に苦しんでいるとウリは分析する。その上で、彼が精神病院を治療環境に選び続けるには、「社会の疎外」をできる限りなくした上で、「狂気の疎外」を治療したい、という思いがあるからだ。だからこそ、治療関係における「社会の疎外」として病棟ヒエラルキーを鋭く指摘し、事務機構に至るまで、民主的な運営をされるように心を配る。一方、バザーリアやイタリアのチームは、そもそも精神病棟構造では「社会の疎外」をなくせないから、精神病院から外に出して、地域の中で「社会の疎外」から護られた精神医療センターをつくり、そこで「狂気の疎外」と向き合った方がよいという。これは、同じ山の登り方の違いにも、思える。

大切なのは、「患者の回りを『取り巻くもの』において、情動やものや言葉の『交換』をどのように最大限に加速すればよいのか」である。これはオープンダイアローグや家族療法でも同じ視点と言える。患者個人に狂気が張り付いている状態を揺り動かすには、「患者の回りを『取り巻くもの』」の環境を変え、「情動やものや言葉の『交換』」が行われるように再配置していく必要がある。それは、急性期状態においては窓が開いているから対話可能である、と考えるオープンダイアローグの思想にも通じる。あるいは患者個人の病理ではなく、家族システムの中での病理の固着化を解き放つために介入していく家族療法の世界も似たことをしている。

そういう意味で、「制度精神療法」とは、制度の硬直性を徹底的に問い直し、患者の治療に本当に必要な形で治療環境を作り直す、そういうダイナミズムなのだと理解する事ができた。そして、それは僕が追い求めてきた動きとも共通すると納得した。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。