規範を超える事実とは?

 

久しぶりに風邪を引いてダウン。
ここしばらく相当気を張りつめていた日々が続いた後だったので、身体がギアチェンジを求めているようだ。鼻づまりに悪寒がすれば、強制的にローギアに入れ替えざるを得ない。それでも金曜は冷や汗をかき、喉をからしながら日中の集まりや講演だけは何とかこなす。その後の夜の会合やら、土曜の予定は全部お断りし、寝込む、ねこむ

こういう時こそ、安静が一番、を理由に読みかけで放ったらかしだった本を最後まで読み終えるチャンスでもある。

「ひとつの王国の統一性は、それと矛盾する存在の切りはなしを前提として保たれている。それはしばしば事実を犠牲とした規範性の維持によって成し遂げられる。人民はたとえいかなる事実であれ、それが王国の規範に触れるかぎりそれを無視しなくてはならない。このようなことがあまりにもつづくと、無視された事実はだんだんと力をもち、ついには王国を倒すほどのエネルギーを貯えてくる危険性を持っている。このようなとき、いちはやく真実に気づき真実を告げる役割を道化はになっている。しかし、それは危険きわまりないことである。」(河合隼雄『影の現象学』講談社学術文庫、190-191

王国だけでなく、あるルールの中で統制されている場は、「事実を犠牲とした規範性の維持」で動いている。そして、「無視された事実」の害や影響が少ない限りにおいて、規範性の維持>事実、という図式は変わらないでいる。だが、「王国を倒すほどのエネルギーを貯えて」しまう前に、その「事実」と向き合い、ガス抜きであれ根本的変容であれ、何らかの対応をしないと、規範性の維持は事実を前に崩壊してしまう。旧ソ連の崩壊であれ、銀行や証券会社の倒産、自治体の破産なども、同じ系譜だ。

だが、昨今多くの場面で「道化」がもたらしてくる新しい事実に、そのまま肯定的評価を与えていいのかどうか、もよくわからない。

「2001年4月。ブッシュ政権の第一予算管理局長であるミッチ・ダニエルは連邦予算審議会のテーブルにおいてこう発言した。『我々政府の仕事とは、国民にサービスを提供することではなく、効率よく金が回るようなシステムを作り上げることだ』」(堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』岩波新書、41

この本では、かの「王国」が重んじる統一性を保つ規範として「効率よく金が回るようなシステム」がこの10年近く採用されてきたこと。その結果、「事実を犠牲とした規範性の維持によって成し遂げられる」ゆえの、犠牲となった事実について、サプライムローンやハリケーンの被害者だけでなく、イラク戦争に従事する米軍や関連民間会社にも、その犠牲者が送り込まれている現実を、フットワークのよい取材で明らかにしている。流れが一面的に見える部分もあるが、王国の規範的な流れと対極をなす動きを指摘するためには、これくらいの「偏り」が必要なのかもしれない。

福祉国家から民営化へと大きく軸が動いてきたのは、確かに官僚制などの制度疲労である。だからといって、新自由主義のみが、唯一の解ではない、とこれも少なからぬ人々が気付き始めている。だが、ではそうではない「解」を、どの「道化」が出してくれるのか。このあたりが、謎のままだ。おそらく色んな政治家や学者は、それぞれの「解」を差し出しているのだろう。でも、どの解答案も「王国を倒すほどのエネルギー」とは何か、の本質をつかめていない。僕にしてもしかり。そして、その本質への近似性が、現在の所一番説得力があると思われている解が「新自由主義的」なるものなのかもしれない。だが、これだって、多くの事実を犠牲にしている、というのは、先のアメリカのルポを見てもわかるところ。ということは、それ以外の何か、がどう出てくるのか、が今、見えない、という混迷の中にいるのだろう。

とまあ、文章のまとまりをどうつけてよいのか、混迷の中にいるうちに、今日はお仕事に出かけなければならない時間。鼻はまだムズムズするが、スーツに着替えて、出かけるとするか。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。