貧困研究や若者研究が専門の知り合いが高く評価していたので、ヨハン・ハリ著『うつ病 隠された真実』(作品社)を読んだ。圧倒的な迫力で、普遍性が高く、確かに読ませる1冊である。
この本が信用できるのは、まず世界中の精神医療関係者へのインタビューを行い、膨大な論文を読みあさったジャーナリストによる著作であるという点、しかも著者のヨハンさん自身もうつ病で苦しんだ経験当事者であり、その視点から「本当に薬は効くのか?」という問いをぶつけ続けてきた「研究成果」であるという点だ。
死別によるトラウマが専門のジョアン・カッチャトーリ氏とのやりとりが、特に印象的だった。
「ジョアンはぼくに言った。わたしたちは『状況を考慮にいれること』をしない、と。人間の感じる痛みというものを、あたかも人生とはまったく切り離された一つのチェックリストによって査定でき、脳の病気であるとレッテルを貼ることができるかのように振る舞っている、と。
それを聞いたぼくは、自分も13年間抗うつ薬を処方されていて、用量も次第に増えていったのだけど、その間、ぼくがそのように苦痛を感じる理由が何かあるかと、医者から尋ねられたことは一度もないという話をした。ジョアンはぼくに言った。ぼく自身に異常があるわけではない、ある種の災害のようなものだ。医者たちのメッセージ—われわれの感じる痛みは単に脳の機能不全に由来する—こそが、わたしたちと『わたしたち自身との絆を断ち切る、ということはつまり他者との絆も断ち切るのだ』と。」(p57)
うつ状態を「脳の機能不全」だと単純化するならば、それは私たちの生きている「状況を考慮に入れること」がなくなる。近代科学においては、そうやって個人因子を取り去って生物学的な機能面での同一性にのみ着目する「操作的定義」を行う。そうやって「ノイズ」を除去し、「科学的」な原因を特定し、結果を一元的に把握し、その因果モデルに則った対処療法となる薬を開発する。「セロトニンの不足には、この薬が効果的です」と。
ただ、抗うつ薬を処方する際、「そのように苦痛を感じる理由が何かあるかと、医者から尋ねられたことは一度もない」のは、ヨハンさんだけではないと思う。もしかしたら、標準的な生物学的治療を信奉する精神科医にとって、「操作的定義」が排除する個人の悲劇を聞いていても、時間が取られるだけだし、それは「ノイズ」だと感じる人もいるかもしれない。あなたが苦痛に感じる理由を聞いたところで、それはあくまでも個人の主観に過ぎませんよね、と。
だが脳の機能不全に原因を単純化すると、見えなくなることがある。それが、「わたしたち自身との絆を断ち切る、ということはつまり他者との絆も断ち切るのだ」という点である。この部分は、本書の本質的な核になる。本書の英語の原題は“Lost Connections: Why you’re Depressed and How to Find Hope”であるが、つながりや絆を失うことで、絶望的な経験はますます深まっていく。その際に、どう視点を切り替えればよいのだろうか?
「ジョアン・カッチャトーリと話してからだいぶん時が経って、自分でも大幅に調査を進めたあとで、ぼくは再びこのときのインタビューの音声を聞き直した。そのときぼくは、悲嘆とうつが同じ症状を呈するという事実には、何か重要なところがあるのではないかと考え始めたところだった。その後のある日、うつを抱えた人たちに話をきいたあと、ぼくはふと自問した。うつが、実は悲嘆の一形態だったらどうだろう。本来あるべき状態にない自分たちの人生を悲しんでいるのだとしたら? あるいはぼくらが失ってしまった、でもまだ必要としている絆を惜しんでいるのだとしたら?」(p59)
悲嘆とうつが同じ症状を呈する。言われてみれば、ものすごく当たり前のことなのだが、操作的定義がされてしまうと、そうではなくなる。「本来あるべき状態にない自分たちの人生を悲しんでいるのだとしたら? あるいはぼくらが失ってしまった、でもまだ必要としている絆を惜しんでいるのだとしたら?」と問うてみると、すべきことは「しっかり話をきく」こと一択なのだ。でも現実は、ヨハンさんがいうように、「13年間抗うつ薬を処方されていて、用量も次第に増えていったのだけど、その間、ぼくがそのように苦痛を感じる理由が何かあるかと、医者から尋ねられたことは一度もない」のである。これが、うつ病を巡る、単純だが最大の落差なのである。そうやって、患者は自分の苦痛や苦しみの理由について話を聞かれることはなく、自分や他者とのつながりを断ち切られ、薬に依存し、でもそれでは治らず、袋小路に陥るのである。
ではどうすればよいのか?
そのことのヒントが本書にはちりばめられているのだが、どうしても紹介したいのが次のエピソード。抗うつ薬もプラセボも変わらないと主張する、『抗うつ薬は本当に効くのか?』の著者アーヴィング・カーシュに真っ向から反論した抗うつ薬の擁護者、ピーター・クレイマー博士は、自身の論を正当化するために製薬会社の治験会場に赴く。法律で謝礼が40ドル〜75ドルと制限されているなかで、うつ状態の人に治験薬を受け入れてもらうために、こんな努力がなされていたという。
「ピーターは、貧しい人々がバスに乗せられて町外れから連れてこられ、日頃家では得られないような上等な心遣いの数々を受けるさまをじっと観察していた。たとばセラピー。そこでは誰もが話をじっと聞いてくれる。あるいは一日中くつろげる温かな場所。医療。そして貧困ライン以下の者にとっては収入が二倍にもなるお金。
こうしたことを観察したピーターは衝撃を受けた。このセンターに姿を見せた人たちは、たまたまそのときそこで検証されているどんな条件にも自分が合っているように見せかける強力な動機があるということだし、また治験を実施しているのは営利企業なのだから、その人たちの言うことを信じているように見せかける、これまた強い動機があるということになる。」(p46)
これは非常に象徴的である。薬が効くか効かないか、以前に必要とされていることを、実は製薬会社も知っているのである。
「たとばセラピー。そこでは誰もが話をじっと聞いてくれる。あるいは一日中くつろげる温かな場所。医療。そして貧困ライン以下の者にとっては収入が二倍にもなるお金。」
つまり、じっくり話をきいてもらえる、心からくつろげる、自分のことを心配してくれる人がいる、お金の事で心配しなくてもよい・・・といった、自分や他者との絆(Connections)が取り戻されている状況があれば、その人は安心が出来るのである。そして、そのような安心できる環境で治験をすれば、それは薬は効くにきまっているのである。だからこそ、「科学界を代表する抗うつ薬の擁護者であるピーター・クレイマーが、薬を擁護するために、薬が効果的だとする科学的エビデンスをくずだと言った」。
「治験そのものが、ペテンだ」(p47)
それ、言うたらあかんやん奴やん・・・! 抗うつ薬の擁護者は、治験現場を見て、科学者であるがゆえに、嘘がつけなかった。製薬会社も被験者も言わないことを、言ってしまったのだ。「王様は裸だ」と。
そして、この本がすごいのは「うつと不安の9つの原因」を述べるだけでなく、「絆の再建」のために大切なこともしっかり提起している点である。しかも「社会的処方」や「ベーシックインカム」、「意味ある仕事につながる」「子ども時代のトラウマを認め、乗り越える」といった、極めて真っ当な解決策を提示している。しかも方法論だけではなく、そもそもうつ病に向き合う価値前提も捉え直そうとする。
「『うつは一種の自意識の拘束なんです』と、ビル・リチャーズはぼくに語った。ビルはジョン・ホプキンス大学での治験チームの一人だ。『うつの人たちは自分が誰か忘れてしまっている、自分に何が出きるのかを忘れてしまっている、自分がのめり込んでいたものを忘れてしまっているのだと言っていいかもしれません。・・・多くは自分の痛みしか、自分の受けた傷しか、自分の恨みしか、自分の失敗しか見えなくなっているのです。青い空も黄色く色づいた葉も目に入らないのです。わかりますか?』 自意識をもう一度開いていくプロセスによって、この拘束を壊すことができる。そしてそれによって、うつを壊すこともできるのだ、と。そのプロセスはエゴの壁を取り払い、たいせつなものと絆を結ぶために自分を開いてくれるのだ。」(p324)
「自分の痛みしか、自分の受けた傷しか、自分の恨みしか、自分の失敗しか見えなくなっている」状況とは、想像するだけでも息苦しくなる。そして実際、うつとはそのような息苦しい状態であり、「自意識の拘束」=「エゴの壁」である。「どうせ」「しかたない」と可能性に蓋をしてしまう。その際、確かに脳の何らかの気質の特性や異常があるのかもしれない。でも、他ならぬ私自身の痛みや傷、恨みや失敗は、あなたのそれとは異なる。生物学的な状況がたとえ特定できたとしても、傷や痛み、恨みや失敗は、薬だけでは癒えない。ゆえに多くの人が「自意識の拘束」=「エゴの壁」に囚われてしまう。その悪循環から脱出するためには、「自意識をもう一度開いていくプロセス」が必要不可欠だと筆者は述べる。なぜなら、自意識の拘束を超えることで、自分が誰かを思いだし、自分に何が出きるのかを思いだし、自分がのめり込んでいたものを思い出すことが可能になるからだ。
イギリスで社会的処方に取り組む医師のサムは次のように言う。
「とりわけうつや不安の場合は、『どうしましたか?』と尋ねるのではなく、『あなたにとって何が大切ですか?』を尋ねるようにしなくてはならないことを学んだとサムは言う。解決策をみつけたいと思うなら、うつや不安を抱えた人が、人生で何をなくしてしまっているのか耳を傾け、なくしてしまったものを取り戻す途を見つける手助けをしなければいけない、と。」
自分自身の「痛みや傷、恨みや失敗」に苦しめられ、そこから抜け出せない人に、「どうしましたか?」と尋ねても、傷口に塩を塗り込むだけかもしれない。であれば、それより「あなたにとって何が大切ですか?」と聞く方がよい。それは、不安や心配ごとではなく、希望や夢に目を向けることだからだ。だからといって、しんどい状況について尋ねないわけではない。「人生で何をなくしてしまっているのか耳を傾け、なくしてしまったものを取り戻す途を見つける手助けをしなければいけない」というのは。その人の悲嘆や喪失の物語をじっくり伺った上で、ではどうすればそこから何かを取り戻せるのか、を一緒に考えることである。これは、薬の処方では出来ないことだ。
その上で、筆者はうつ状態に苦しみ始めた10代の自分に向かって、こんな風に最後語りかける。
「君は脳内の化学物質の不均衡で苦しんでいるんじゃない。君が苦しんでいるのは、われわれの生き方における社会の不均衡、心の不均衡だ。これまで君が聞かされてきたことのほかに、はるかにたくさんの問題がある。セロトニンじゃない。社会なんだ。君の脳じゃない。君の痛みなんだ。君の生物学的機能の不調が、君の苦悩を悪化させることは確かにある。でもそれは原因じゃない。それは後押しをするだけだ。だから一番の解決策を求めているなら、探すのはそこじゃない。」(p351)
「うつは、有意な程度に、われわれの文化の中のおかしな方向に進んできてしまった部分に由来する集団的な問題であると理解した以上、その解決も—有意な程度に—集団的なものでなければならないのは明らかだ。つまりぼくらは、文化を変えなければだめなんだ。そうやってもっと多くの人たちがそこから解放されて、自らの人生を変えることができるようにならなければだめなんだ。」(p356)
生物学的な精神医学では、うつは「脳内の化学物質の不均衡」と説明される。だが、この本の結論では、「化学物質の不均衡」説は退けられ、「われわれの生き方における社会の不均衡、心の不均衡だ」と著者は喝破する。「セロトニンじゃない。社会なんだ。君の脳じゃない。君の痛みなんだ」と。社会的な抑圧や力の不均衡、そしてそれが個人に内面化された際の、個人の不安やストレスの最大化。そういった悲嘆や苦しみ、生きる苦悩の最大化こそが、うつの元凶にある。そして、それは個人的な問題ではない。物質主義化した西洋近代社会という「集団的な問題」である、とだからこそ、パキシルを飲んでも状況は改善しない。本当に状況を変えるためには、「文化を変えなければだめなんだ」と。
本書では、オープンダイアローグもイタリアの精神医療改革も、一切登場しない。でも著者のこの結論は、病気から生きる苦悩へのパラダイムシフトを果たしたバザーリア達の達観とも通じるし、近代合理主義に自閉した人工的な生態系を越えて、「一神教的な裁定者・裁定システム」の限界を超えた結論なんだと改めて感じた。