「しているふう」「しぐさ」を問う

世の中でカシコイ人、というと、どういう人を思い浮かべるだろう? 早口で、エビデンスやセオリーなどの数字とカタカナ語を述べまくって、反論する相手を「はい、論破」とか、「それってあなたの感想ですよね」と潰しにかかる、あの手の人の事を思い浮かべないだろうか? これはテレビタレントだけでなく、研究者の世界にも、一定数いて、面倒くさい。

で、今日ご紹介する勅使川原真衣さんは、そういうカシコサとは別の位相・次元で聡明な人だと感じる。

「『覚悟』のような、強固そうな響きがあれど、中身はあいまいなことばで過去を振り返った気になる場面こそ、本筋から目を逸らしているのではないか。そう思ってみると、皮肉なもので、『覚悟』論を振りかざすときほど、揺らぐ情動、合理的な説明のつかなさ、概して『弱さ』『怖れ』のようなものから逃げ惑う様相が目に浮かぶ。」(勅使川原真衣著『格差の“格”ってなんですか? 無自覚な能力主義と特権性』朝日出版社、p99)

彼女の語り口は非常にソフトで、小難しい言葉や概念はめっちゃ知っているけど、ほとんど使わない。そして、カシコイ男子がしばしば無視する・なかったことにする・言及しない『弱さ』『怖れ』といった「情動」の揺らぎに目を向ける。いくら強がって「覚悟が足りない!」とか述べたところで、それは合理性がありますか? 「本筋から目を逸らしているのではないか」と。

あるいは別の所ではこんな風にも述べる。

「周りと同じことをするとは、『よりうまくやる』『より効率よくやる』といった軸の競争に自ら飛び込むことになるのだ。それも、私たちが今しがた生きるのは、分け合いの原資自体を拡げられていない社会だ。拡がらないパイに人が殺到するとなれば、当然、奪い合う方向になる。奪い合いとは、競争に勤しむことに他ならない。その地獄絵図は、どう考えても若者が望む『安心』とは真逆であろう。」(p79)

冒頭から述べているカシコイ男子って、「『よりうまくやる』『より効率よくやる』といった軸の競争に自ら飛び込む」競争の勝者である。株やストックオプションで儲けた、とか、そういうことを勝ち誇る、「奪い合い」の勝者である。だからこそ、自分が勝ち続けてきたゲームのルールを変える気は毛頭ないし、その奪い合いを批判する人々に向かって「負け犬の遠吠えだ」とピシャリと反論した気になる。

でも、勅使川原さんの批判は、位相が違う。この「拡がらないパイに人が殺到」する「奪い合いの社会」自体がおかしい、それは「若者が望む『安心』とは真逆」だと指摘している。『よりうまくやる』『より効率よくやる』ことが称揚されている前提である、「周りと同じことをする」ことに、本当に価値がありますか?と。ボルタンスキーの『批判について』を借用するなら、カシコイ男子達は、ゲームのルールの勝者として、「はい、論破」とか、「それってあなたの感想ですよね」という日常性批判を行っている。でも、勅使川原さんは、このゲームのルール自体がおかしいし、『よりうまくやる』『より効率よくやる』ことが求められる=「周りと同じことをする」こと自体に問いを挟んでいる。ボルタンスキーはそれを「メタ批判」と述べているが、彼女が本書で一貫して問い続けているのは、メタ批判である。しかも、小難しい理論やカタカナ語はもちろん彼女は知っているけど横に置き、あくまでも日常語でメタ批判をするのが、本書を読んでいてしびれる理由である。

「何かを『問題』だと提起するのなら、それをどう植えつけて達成しようか、と躍起になる前に、何がそれを『問題』にしてしまったのか。そこには個人の能力や資質の問題以前に、構造的な闇がないか。そんなことを思いめぐらすことが当たり前になればと思う。」(p59)

本書のテーマである「リスキリング」とか「自己肯定感」「つぶしが利く」「タイパ」「赦す」など、なんとなくよさそう、と思われている言葉を、彼女はじっくりあぶり返す。バッサバッサと切り捨てる、のではないし、「はい、論破」とか、「それってあなたの感想ですよね」とも言わない。そうではなくて、本書を一貫しているのは、「何がそれを『問題』にしてしまったのか。そこには個人の能力や資質の問題以前に、構造的な闇がないか。」という問いである。問題が個人化され、自己責任化されやすいこの社会において、そうやって個人責任に帰することで利益を得ている「構造的な闇がないか」を炙り出そうとしている。あなたが問題ではなくて、「何がそれを『問題』にしてしまったのか」という問題を生み出す構造を、しつこく、粘り強く、でも柔らかな言葉で、問い続ける。このふだん使いのメタ批判が、本当に迫力がある。

「一見とおりのいい言説に出くわしたときは、
・そう説くことで誰かが潤っているのではないか?
・逆に、誰かの発言権は奪われてはいないか?
とねちっこく一考したって何の問題もない(これまた学校は教えてくれないし、企業でも煙たがられる)。」(p82)

そう、こういう問いは、カシコイ男子達は嫌がる。『よりうまくやる』『より効率よくやる』ことで「奪い合い」の勝者になってきた人たちに向けて、そのもっともらしい言説は、あなたをより潤わせ、私の発言権を奪うためになされていませんか? ゲームのルールを強化するだけの発言ではないですか?と問うことは、もっともされたくない問いだからである。だから、勅使川原さんの本は売れているけど、一定数の「奪い合い」の勝者には煙たがられたり、あるいは無視されたりするのだと思う。

「少子化問題を『(経済的)メリット』で語ることは、家族主義の前提を暗黙に了承、内面化している意味で、問題解決しているふうをとる体制側にとっては、誠においしい展開と心得たい。そして本当に未来を構想するならば、いかに皆で子を育て、生き合うか? 家族に閉じないか? という脱家族主義を解題せねばならない。」(p211)

この本の真骨頂は、一見するともっともらしい言説が、じつは「問題解決しているふう」という「しぐさ」を装っているだけで、現状の勝ち組(権力者、金持ち)のシステムに結果的に利する構造である、ということを喝破しているのである。少子化をカネの問題に矮小化してしまえば、選択的夫婦別姓問題とか、家父長制問題には手を付けなくても済むから、支配側にとっては「誠においしい展開」なのである。昭和100年の今年、昭和的なOSを入れ替えたいと思うなら、「いかに皆で子を育て、生き合うか? 家族に閉じないか? という脱家族主義」に向き合わないと社会は回らないのだけれど、それを「カネの問題」に矮小化したいから、103万の壁とか、高校の無料化でお茶を濁したくなるのだ。

本当なら「奪い合う」勝者だった彼女が、なぜ自らの立ち位置の前提を揺るがす発言をし続けるのか。それは、確かに彼女が進行性乳がんになったから、という背景があるのだが、でもそれ以前に、彼女が譲れない一線として抱えている本質的な部分で、彼女の唯一無二性があるのだ。

「でも私は、『ってことですよね?』構文も、切れ味という名の一刀両断しぐさも、自分がされてすごく嫌だった。だから相手の話を最後まで、何なら声にならない部分も含めて聞いてただその場に居る。洗練とは程遠い、謎の『ものわかりの悪いコンサル』であろうと務めてきました。」(p226)

彼女はされて嫌だったことを、ちゃんと「嫌だった」という情動も含めて、記憶している。ぼく自身も「『ってことですよね?』構文も、切れ味という名の一刀両断しぐさも、自分がされてすごく嫌だった」けど、それは僕が愚かだから、と思っていた。また、こういう「構文」や「しぐさ」を、子どもが産まれるまで、ダイアローグを学ぶまで、し続けてきた苦い記憶もある。彼女は洗練された外資系コンサルにいながら、同僚からポンコツだと罵倒されながらも、「『ものわかりの悪いコンサル』であろうと務めてき」たからこそ、もっともらしい「しぐさ」や「構文」から距離が取れたのである。「ものわかりの悪さ」というのは、『よりうまくやる』『より効率よくやる』ことを称揚するこの社会のルール自体を、「ほんまかいな?」と疑い、「個人の能力や資質の問題以前に、構造的な闇がないか」を深く深く掘り下げていく、メタ批判なのでもある。

このあたりについて、もっと色々書きたいが、その話は3月2日に隣町珈琲さんでの勅使川原さんとの対談に取っておきたい。というわけで、よかったらこちらもどうぞ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。