文脈を踏まえた価値選択を読み取る

世の中には、購入して・発売後にすぐ読む本もあれば、ずっと寝かせている本もある。僕の部屋や仕事場には10年物、20年物とかざらにある。そして、今回は2014年に初版が出てすぐ買いながら、なかなか読むご縁がなかったもの。人類学を学ぶさーやさんが、「日本の精神医療のフィールドワークと言えばこの本しかありませんよ!」と言うので、やっと読めたのが中村かれんさんの『クレイジー・イン・ジャパン』(医学書院)

おっさんになったから告白するが、正直、嫉妬で読めなかったのだ(苦笑)

そう書いてみたら、ほんまにダサい!理由。でも、イェール大学の人類学者がべてるの家でフィールドワークをして、それを超人気レーベルである「ケアをひらく」シリーズで売り出した。何重の意味でもキラキラしているように見えて、近親憎悪ではないけれど、自分には出来ないことをしている優秀な研究者へのやっかみのようなものがあって、読む気にならなかったのだ。そして、そこから10年寝かして、己のうちに黒々とトグロを巻く能力主義とは新刊『能力主義をケアでほぐす』でだいぶ成仏出来たので、やっと読めるようになった。ものすごい長い前置きですね。

さて、確かにこの本は真っ当な人類学者によるフィールドワークである。べてるの家については、向谷地さんの本も沢山出ているし、斎藤道雄さんのルポも読んだ。でも、それらとは違う、魅力的なエスノグラフィである。というか、僕らが知るべてるの家のイメージをアップデートする、というか捉え直す力がある。

まず、べてるのキャッチフレーズが英語訳と共に書かれているのを眺めて、めちゃ面白かった(p66-67)。

Meeting is more important than eating. (三度の飯よりミーティング)
Weakness binds us together.(弱さを絆に)
Just letting it be is good enough.(そのまんまがいいみたい)
Recaim your problem.(苦労を取り戻す)

実はこの日本語を機械翻訳にかけてみると、全然違う英訳が出てくる。

have a meeting rather than eating three meals
Weakness as a bond
They like it just the way it is.
Reclaiming the hard work

ポンコツな機械訳と中村さんによる達意の翻訳。この二つを比較して改めて思うのは、中村さんはフィールドワークでべてるの家の大切な価値観を学び、その価値前提を英訳の中に取り込んでいる、ということだ。「三度の飯よりミーティング」というのは、ご飯を食べるという基礎的な営みよりもミーティングの方が「はるかに大切だ」という価値表明である。「弱さを絆に」は「弱さ」が「人々を一緒に結びつける」紐帯になる、ということである。そのまんまがいいみたい、というのは、単にそれが好きだとかそういう話ではなく、そのまんまで「充分なので無理しなくて良い」、ということだ。苦労を取り戻すというのは、しんどいことではなく「自分自身の問題」と向き合おう・取り戻そう、ということである。

こういうべてるの家が大切にしたい理念をしっかりわかっているからこそ、中村さんは本質をしっかり捉えながら、英語としてもすごくクールなフレーズに置き換えられたのである。これだけでも、フィールドワーカーとしての彼女の本領発揮、と言える。ついでに言うなら、今のところ機械翻訳は、こういう価値観が濃密に含まれたフレーズをしっかりずばりと翻訳できない、という限界である。なぜならば、そこには「どのような背景がその言葉に含まれているのか」という文脈を踏まえた価値選択が出来ないからだ。そして、この文脈を踏まえた価値選択を読み取ることこそ、フィールドワークの極意なのである。という意味でも、この翻訳は二重三重に味わい深い。

この本の最も魅力的なのは、べてるの家の住人達の物語である。特にUFOと集団妄想という副題のついた「耕平の物語」は圧巻だった。襟裳岬にUFOが来るからと操縦しなきゃとべてるを出て行こうとする耕平さん。それを聞いて、UFOの遭遇経験のあるメンバーも含めてミーティングをするべてるメンバー達。そして、浦河では操縦するには免許がいるとみんなから聞いて、免許は「川村宇宙センター」で取れるから、と浦河赤十字病院の川村先生のところに連れていかれ、「UFO探検の前に精神科病棟で2,3日休んでいたほうがいいといわれて、本人も納得して入院する。

このエピソードだけでも充分魅力的なのだが、実はこの山根耕平さんの歴史を辿る中で、彼が狂わざるを得なかった「日本社会の狂い」を中村さんは見事に描き出している。山根さんは三菱自動車のエンジニアで、顧客やディーラーから寄せられる欠陥情報の解析をしていたが、その情報を上司に隠蔽するように指示され、ましてや本社で監査の際の隠蔽の練習にまで加担し、それはオカシイと異議申し立てしたらいじめられるようになり、狂っていった。そこで、たまたま斎藤道雄さんと山根さんの母親が友人で、べてるの取材に連れていってもらって、そこからべてるに住むようになった、という。

そして、べてるの家にいても、隠蔽しなきゃ・言ってはいけない、というのが根底にあって、なかなか自分の苦しさを伝えられなかった。それが、UFOのエピソードくらいから、ミーティングで言わなければならない、そしてみんなが自分の話を聞いてくれるようになり、徐々に自分自身を抑圧して言えなかったことが、少しずつ言えるようになってきた。そして、そのエピソードの二年後に、三菱自動車の隠蔽事件がマスコミで発覚し、「おまえ、走ってる車のタイヤがとれるだの、エンジンから火噴くだの言ってたけど、本当だったんだなぁ」と回りから認めてもらい、本人も落ち着くようになったという。社会の狂いを内面化して苦しんでいた山根さんは、その狂いを「外在化」できたことで、やっとすくわれていった。そのプロセスがしっかり描かれていて、魅力的だった。

さらに、最後の方で、べてるの家が社会福祉法人になることによって、当事者メンバーが組織運営から外れていき、健常者メンバーが監査対応などで「きっちり」「しっかり」仕事をする、「官僚主義化と合理化の傾向が強まっている部分が大きい」「日本の他の施設と違わなくなってきている」という制度化の限界が述べられている(p209)。ただ、これはべてるの家に限らず、介護保険法や障害者自立支援法などの法制度で事業を展開する、社会運動的な団体が少なからず同じような影響を受けている。そのことは「ソーシャルアクションの担い手から、サービス提供への雁字搦めへ」という文章で書いたこともある。

そしてこの本の最後の方に、最も優れたまとめが書かれていた。

「理想郷『ユートピア』が、暗黒鏡『ディストピア』になってしまうのは、どのようなときだろうか。おそらく両者は客観的に区別できるものではなく、価値観の問題なのだろう。私は、べてるがカルト教と類似していると感じたことは何度もあった。カリスマ的リーダーがいて、強い信念の体系があって、緊密なコミュニティ生活が強調されている。それでもカルトと似ていないのは、誰もが自分の好きなことをする自由があるからだった。」(p216)

ここまでストレートに書くのか、と思うほど、本質を突いている。そう、べてるの家は、その立地の特異性(北海道浦河の過疎地)や向谷地さん、川村さんなどのカリスマリーダーの存在、そして「三度の飯よりミーティング」に代表されるような濃厚で凝縮的なコミュニティが、カルト教と類似した雰囲気を醸し出す。現にそういう批判を聞くこともある。でも、べてるの家という濃密なコミュニティがそれでもカルト教と異なるところは、「誰もが自分の好きなことをする自由がある」という部分だ。

逆にいえば、この「誰もが自分の好きなことをする自由がある」という部分は、精神病院に代表される全制的施設とは真逆なのだ。そして、より集中的な支援が必要な精神障害者であっても、「誰もが自分の好きなことをする自由がある」コミュニティをどう地域の中で作り出せるのか。それが、この本が差し出す大きな問いなのだと思った。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。