ユングを通じて己に出会う

三日連続でブログを書くとは思わなかった。だが、金曜土曜と魅力的な本を読んで紹介したくなり、今日も魅力的な本の紹介だが、なかば自分のために書こうと思う。

高校生の頃、家の近所に図書館が出来た。真新しい本ばかりで色々眺めているうちに、河合隼雄の『こころの処方箋』に出会って、カウンセラーに興味を抱く。そして臨床心理学の講座もある阪大人間科学部に入学する。当時、そこで教授をしておられたのは、河合隼雄氏の直弟子の一人である倉光修先生。高校の先輩だったこともあり、気楽に「僕はカウンセラーに向いているでしょうか?」とおたずねして、「君はおしゃべりだから、向いていないと思うよ」とズバリと言われ、落ち込んだような、ホッと区切りがついたような気持ちになったのは、30年前の事だった。でも、学部時代のお気に入りは『影の現象学』だし、大学院時代は「出会う精神障害の当事者を生半可に分析してはいけないから」と精神医療や精神分析系の本を封印していたが、博論を書いた後は、趣味として再び河合隼雄やユングを読み、ユング派やトランスパーソナル心理学など読みあさってきた。

なので、今回大塚紳一郎さんが訳されたマリー・スタイン著『ユング派精神分析の四本の柱』(創元社)も早速読んでみた。これは実に読みやすい日本語訳でユング派の魅力が詰まっていて、短い文章なのであっという間に読める。だが、今の僕には非常に沢山の滋養を与えてくれる1冊だった。この本はそれぞれの柱に一章ずつ割いている。こんな目次となっている。

第一の柱 個性化のプロセス
第二の柱 分析関係
第三の柱 夢 全体性への道
第四の柱 アクティヴ・イマジネーション 変容をもたらすもの

それぞれの柱に関して、少し自分語り的に書いてみたい。

第一の柱「個性化のプロセス」については、2012年に最初の単著『枠組み外しの旅』を書く際に、副題に「「個性化」が変える福祉社会」とつけた事にも繋がっている。ちょうど30代後半で、ユングのいう「人生の正午」にさしかかっていた時、それまで外に外にと目を向けていた自意識を、自分自身の内側にと向け始めた頃だった。ユングがフロイトと決別し、スイスの湖畔で自分自身と向き合っていた伝記の記述にものすごく心惹かれたのを覚えている。そこから一回り以上たった壮年期に入った僕には、以下のフレーズが心に残った。

「個性化について、ユングはこのように述べることがあった。「個性化とはあなたがになるかというだけではなく、になるのかということでもある」と。「」に相当するのは意識的なアイデンティティだが、「」とは自己の全体性のことであり、意識的な側面と非意識的な側面の両方が合わさったものである。「自己」は「自我」の上に位置する何かであり、自我は絶対的に不可欠な部分であるが、自己全体の一部にすぎない。それがユング心理学の基本的な公理である。」(p13)

前任校では39才で教授になってしまった。「になるか」という意味では、「教授になる」という形で、一つの上がりを迎えてしまう。でも、当然中身は成熟してはいない。それは「になるのか」という問いをずっと抱えていたからだ。だからこそ、37才で上梓した最初の単著に付けた「「個性化」が変える福祉社会」という副題は、まさにぼく自身が探し求めている最中のフレーズでもあった。自我肥大の真っ最中に、それ以外の「自己の全体性」に気付き始め、どうしたら「」ではなく「」を追い求められるのか、を必死で探していた。「国の審議会委員」という」でも挫折したタイミングで、ちょうど自我から自己へと向き合う転換期にいたのだと思う。

では、具体的にはどうしたらよいのか?

「自我は意識の反映に囲まれている。その意識を外側に広げていくことはできても、他の場所を探すことをはじめなければ、限定された意識のモードに閉じ込められてしまう。それまで探ってこなかったクローゼットや地下室のドアを開けなければならないのだ。これが夢やアクティヴ・イマジネーションが自我意識を越えて、自己を発見するための重要な方法となる地点である。」(p40)

村上春樹の小説は、まさに「クローゼットや地下室のドアを開け」ることで、「限定された意識のモード」の外側を探索する物語を書き続けている。それは、「自我意識を越えて、自己を発見するための重要な方法」であることを、無意識的に=作家的な直観によって、知っているからだと思う。20代で村上春樹に一度入れ込み、博論が書けないからと村上作品をすべて売り払った後、博論後に猛烈に読み直し、全集も買って何度も読み返している僕は、たぶん自分では夢分析もアクティヴ・イマジネーションも出来ないので、村上作品を通じて、自己との出会いの疑似体験をしていたのかもしれない。

さて、第二の柱「分析関係」に話を移そう。

今回この第二の柱を読んで、「転移」についてものすごく「自分事」として心に残った。ぼく自身は、「無理しない地域づくりの学校」を10年前から始め、岡山だけでなく、長崎や養父でも続けている。ここで出会う受講生と、1時間時間を取って、面談をする。また、面談といえば、ゼミ生との個別面談も行う。こういった面談では、以前はアドバイスや助言をよくしていたのだが、オープンダイアローグに出会ってから、ただただ聴くことの重要性を、身に染みて感じてきた。そして、こちらがアドバイスや助言を手放したことによって、僕が想定していなかったような話が沢山だされ、こちらはただただ驚きながら頷きつつ聴いていると、相手が目から水を出したり、誰にも言わなかった墓場ネタの話をされるようになってきた。なるほど、そのレディネスが整っていなかったから、倉光先生は「君はおしゃべりだから、向いていないと思うよ」と直言されたのだと、今ならわかる。

閑話休題。そして、この「ただただ聴く」中で生じ始めていることの中には、どうやら相互作用の水準cとされる「分析家と患者のあいだの無意識的な相互作用の交点」に近い場合もあるのではないか、と思い始めている。

「水準cでは、二つの心の出会いがあり、この出会いこそが分析家とクライアントの双方にとって、決定的なまで変容を促すものとなっていく。それは一種の融合関係であり、そこで二つの心が出会い、ひとつになるのだ。両者は新たな、そして互いにふれあう、自己の感覚を形成していく。水準cの関係性は強力かつ永続的である。」(p69)

あらかじめ断っておくが、僕は公認心理師の資格も持っていないし、ユングも趣味で読んでいるだけなので、お話を伺う相手を分析しようとか解釈しようという気はさらさらない。にもかかわらず、相手が圧倒的な何かを話し始めてくれることもあり、オロオロしつつも、ただただ話を聞くしかない。そして、話を聞いているうちに、相手の中で勝手に何かが動き出し、目から水を出されたり、深い何かが動き出すのを実感することがある。それは、対面でなくても、オンライン越しでも、そういうことを感じる時がある。一緒に学校をやっている尾野寛明氏は「また、押すなスイッチを押しているの!」と言うのだが、こちらは押していないのに、勝手にスイッチが入っているのである。

僕は精神的な不調や疾患を抱えたと自覚している・主訴のある人の話を聞くことはない。だが、正常とされる生活をしている人の中にも、様々なしんどさやドラマ、傷つき、喜び、試行錯誤、自信のなさ、恐れや不安がある。それらを一つ一つ丁寧に訊いているうちに、どこかで相手と繋がる瞬間がある。ただただ話を聴いているだけなのに、だからこそ、時として「そこで二つの心が出会い、ひとつになる」「一種の融合関係」となることがある。ある人が、「竹端と話をするときは、自分の100%で向き合わなきゃいけない」と語ってくれた。そんなつもりはないけど、その人とは「新たな、そして互いにふれあう、自己の感覚を形成していく」対話の時間になっているのかも、しれない。

そして、深く話を聴くからこそ、転移に自覚的である必要があると思う。

「陽性転移というものもあれば、陰性転移というものも存在する。陽性転移はたとえば理想化し、愛し、賞賛するものであり、陰性転移はたとえば怒り、恐れ、疑うものである。他に「鏡転移」と呼ばれるものもある。これは心理療法化に母性的に関わってもらいたい、抱えてもらいたい、慈しんでもらいたいという感情だ。「エロス的転移」と呼ばれる融合的な転移もある。これは欲望の対象と性的に一体化したい、分析家と愛の関係で結ばれたいという転移である。」(p79)

話を聴く相手に巻き込まれれている際には自覚的ではないのだが、このフレーズを読んで思い返してみると、あれは強い転移の荒波だったのだなぁ、と思うエピソードがある。本当に幸いなことに「エロス的転移」だけには呑み込まれたことはないが、あとのどれも経験している。だからこそ、ぼく自身が自らの「個性化」に向けて、「それまで探ってこなかったクローゼットや地下室のドアを開けなければならないのだ」と改めて思う。

第三の柱「夢 全体性への道」について。僕は夢とアクティヴ・イマジネーションについては、正直に言って、うまく扱えていない。まだ「他の場所を探す」ことが出来ていない。だからこそ、この二つは、壮年期に入ったぼく自身の、これからの探索課題だと改めて読みながら感じた。

第四の柱「アクティヴ・イマジネーション 変容をもたらすもの」について、わかりやすいやり方が書いてある。

「まずは外部から邪魔されることのない物理的な空間で30分間を確保することからはじめてみよう。電話はなし。メッセージもなし。会話もなしだ。」(p161)

そのうえで、「何も考えず、何も見ず、何も感じない、真っ白なスクリーン—ただの何もない空間—を精神の中に創り出すのだ」「無理強いせず、イメージを呼び起こそうともせず、何かが姿を表してくれるのを単純に、そして辛抱強く待つ」(p162-3)と述べる。

その上で以下の三つがコツだと書く。

その一:ただ、生じさせてみる
その二:なんであれ、やってきたものは受け入れる
その三:もしもそれが動いたのなら、ついていく

これを書いている最中に30分時間を取ったが、逆にいろんなイメージが覆い尽くされて大変だった。特に村上春樹の小説に出てくる羊男とかカーネルサンダースとか、そういう具体的なイメージに支配されてしまって30分は終わった。村上春樹がひょいっと掴んだ「ただ、生じさせる」何かがこんなに難しいなんて! まあ、これはお待ちするしかないので、しばらく挑戦してみようと思う。

というわけで、本の紹介というより、本と出会ったぼく自身の感想のようなものを書いたけど、この本は折に触れて読み返したい1冊だ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。