二次障害の相互作用モデルの迫力

僕が読む本を選ぶ際、自分で選ぶ事もあるけど、信頼できる他者がオススメするので読んでみる、というのも割合多い。今回は年若き友人の関西学院大学の柴田さんが、「地域福祉のホープですよ」と教えてくれた人の本を読んでみた。確かにめちゃ学びが多かった。それが加藤昭宏さんの『社会的孤立へのコミュニティソーシャルワーク実践:地域福祉推進の羅針盤』(ミネルヴァ書房)である。

彼は大学卒業後、愛知県内の社会福祉協議会でコミュニティソーシャルワーカーとして働いてきた後、自らの実践理論を探索的な博士論文にまとめたのが本書である。この本では、ゴミ屋敷やひきこもり、家族不和やご近所トラブルなど「複合的な課題」を抱えた個人や世帯の問題を「個人の病理」に閉じ込めず、「現象化している課題(例えばひきこもり、ゴミ屋敷など)の背景には、他者との関係性に関する課題があり(全容は見えないが、一部顕在化している状態)、さらにその背景に『福祉的なニーズ』が潜在化している」(p37)とした上で、その「他者との関係性の課題」に切り込んでいく部分である。その上で、そのようなしんどい状況にある人を以下のように解像度を上げて描いていく(p49-50)。

①発達障害などの『生きづらさ』があるだけではなく、
②それらの生きづらさに対する家族や友人・知人、地域住民など周りの人々の無理解・無配慮による不適切な対応(注意叱責、からかい、無視など)が繰り返され、内的世界における生育歴上の二次障害として、自己評価・自尊感情の低下、歪んだ認知や病的な判断等の対人関係の歪みや適応上の問題—例えば、周囲の働きかけを被害的、迫害的に解釈してしまう—を引き起こしている。
③さらに統合失調症、うつ病、双極性障害、不安障害、強迫性障害など「併存精神障害」が合併し、深刻化することで
④ひきこもり、ゴミ屋敷など制度の狭間の課題を抱えるに至るのではないかと考えられる。
⑤そして、制度の狭間の課題を抱えることによる家族関係の悪化、近隣トラブルなどが起き、現在(外在世界)においても他者との関係性における二次障害が生じ、社会的孤立(あるいは社会的排除)の状況となっている。

この整理が秀逸なのは、「問題行動」や「困難事例」として支援者の前に立ち現れる現象を、⑤「他者との関係性における二次障害」と喝破していることである。「二次障害」ということは、それ以前の悪循環の連鎖がある。それを①「生きづらさ」→②「生育歴上の二次障害」→③「併存精神障害」→④「制度の狭間」→⑤「他者との関係性における二次障害」、と見事に言語化してくれている。

その上で、悪循環の高速度回転を、以下のように描写している。

「内的世界における生育歴上の二次障害(②)は、併存精神障害の発現(③)や制度の狭間の課題が生じること(④)によって、相互作用を伴いさらに深刻化してきた。また、このように相互作用を伴って蓄積された二次障害は、現在における他者との関係性によってさらに悪化する(⑤)など、本人の内的世界における二次障害(②)と、外的世界における二次障害(⑤)も相互作用を伴うのである。より明確に述べるのであれば、①から⑤は階層的に存在するのではなく、常に相互作用を伴い、(本人の内的世界において)二次障害(②)として蓄積されてきており、また現在も(外的世界における他者との「関係性」の中で)蓄積され続けている(⑤)のである。そしてその結果、対象者の「生きづらさ」(①)はさらに増大しているのである。」(p51)

「二次障害の相互作用モデル」として描かれるこの説明は、「問題行動」「困難事例」と言われる現象に関して、実に解像度が高い描写であり、説得力と迫力がある。筆者も語るように、「①から⑤は階層的に存在するのではなく、常に相互作用を伴」うので、線形的な因果関係を同定することが出来ず、だからこそ、支援者は困惑しやすい。しかし、一つ一つのエピソードを時系列的に拾っていくなかで、どのように絡み合い、「生きる苦悩が最大化した姿」となるのか、を腑分けすることが可能になる。

これは、バザーリアなどトリエステの精神医療チームが捉えた、「病気そのものへの焦点化ではなく生きる苦悩の最大化に向き合う支援体制のパラダイムシフト」にも通じる。またぼく自身も10年前、「「合理性のレンズ」からの自由 : 「ゴミ屋敷」を巡る「悪循環」からの脱出に向けて 」という論文を書いたのだが、そのときに、非合理の合理性=当事者の内的世界のメカニズムを描いたつもりになっていた。しかし、本書を読みながら、10年前の僕が見落としていた&加藤さんの論考で気付かされたのは、②「生育歴上の二次障害」と⑤「他者との関係性における二次障害」である。そして、「ゴミ屋敷」や「ひきこもり」などが現場の支援者にとって支援困難になる最大の理由は、②と⑤の二つの「二次障害」であると、今回初めて気付かされた。「周囲の働きかけを被害的、迫害的に解釈してしまう」のは、②「生育歴上の二次障害」であり、「家族関係の悪化、近隣トラブル」などで「社会的孤立(あるいは社会的排除)の状況」に陥っているのは⑤「他者との関係性における二次障害」なのである。

このような構造が見えてくると、本書の副題が「地域福祉推進の羅針盤」とされた理由も見えてくる。この羅針盤を用いて、どのようにこの「しんどい状況」に関わる事ができるか、が「コミュニティ」を対象にしたソーシャルワークに問われてくるのだ。

実際、隣人H氏との「ご近所トラブル」に陥っていたG氏の事例では、以下のように加藤さんは関わっていったという。

「G氏の(併存精神障害の可能性を否定できない)『問題行動』に対して悩んでいたH氏ら近隣住民は、CSWの介入(面接、および地域福祉学習会の実施)によりG氏への理解が深まり(本人の人柄・性格と病気・障害を分けて考えることができ、またこれまでの言動の意味を解釈できるようになり)、自らの無自覚な態度(例えば、顔を合わせると避ける)がG氏の生きづらさを助長(歪んだ認知、迫害的な内的世界の強化に無自覚的に加担)していたことに気づき、(若干の罪悪感とともに)『我が事』となり、そこからはじめて本人支援のあり方を考えていった。結果としてH氏ら近隣住民らの対応が変わり(社会的障壁がなくなり、次第に二次障害も解消され)、G氏の『問題行動』(生きづらさ)が軽減した。」(p99)

この関わりは、本人の生きづらさや困難を支援するために、地域住民の態度や解釈の変更を「地域福祉学習会」などを通じて醸成していき、⑤「他者との関係性における二次障害」を減らしていくなかで、結果として本人の①「生きづらさ」や②「生育歴上の二次障害」、③「併存精神障害」の表現としての「問題行動」を鎮めていったのである。そして、これが「コミュニティ」ソーシャルワークであるゆえんを、加藤さんは以下のように二つの視座として整理している(p154)。

①ミクロレベル(対象者):対象者は「生活史の中で、(専門職を含む)他者との交互作用の結果、二次障害等の問題を抱え(させられ)た人」である。「内的世界における生育歴上の二次障害」および「外的世界における現在の二次障害」の2つが、支援における重要な焦点の一つである。
②メゾレベル(コミュニティ):無自覚、かつ強弱関係を伴う相互作用によって、コミュニティという一つの生態から、理解出来ないがゆえに「異物」として排除されるというプロセス(社会的排除)が生じている。支援においては、個別支援と地域支援を一体的に展開していく。

おそらく一般的なソーシャルワークや精神医療の世界では、②「内的世界における生育歴上の二次障害」については、エンパワーメントやリカバリーアプローチなどを通じて関わろうとするが、⑤「外的世界における現在の二次障害」については手出しがしにくい。なぜなら、それは対象者個人と家族や隣人、周囲の人という他者との相互作用であるからだ。それだけではく、⑤「外的世界における現在の二次障害」は、コミュニティという一つの生態から「異物」ゆえに社会的排除されている、という視点を持つと、排除している周囲の人々に働きかけることで、理解を増やし、周囲の人が本人への関わりを変えていく、という相互作用と相互変容が求められる。このミクロレベルとメゾレベルを一体的に支援していくソーシャルワークが、「コミュニティ」を基盤としたソーシャルワークである、と加藤さんは整理している。

その上で、彼は理論的基盤として、クライン派の対象関係論を位置づけ、以下のように述べている。

「内的対象関係、すなわち『個人の内的世界からみた環境との関係性』を重視し、個人への支援:『個人の内的世界からみた環境との関係性への支援』と、実際の環境への支援:『内的世界への理解の促しを通した共感に基づく関係性への支援』という2つのアプローチを志向する支援理論である。」(p133)

これも非常によくわかる。個人への支援と、本人とトラブルを起こしている周囲の人々への支援を同時並行的に行わないと、悪循環の高速度回転は止まらない。彼はその理論的基盤を精神分析家のメラニー・クラインに求めたが、ぼく自身は社会学のアプローチから「他者の合理性の理解」として捉えてきたし、前回アップしたブログでも、その内的合理性の理解にもとづく意志決定への関与について言語化してきた。ただ、ぼく自身はそれを、家族や隣人といった重要な・時には敵対する他者に『内的世界への理解の促しを通した共感に基づく関係性への支援』を促すアプローチは抱けていなかった。これが本書を読んでの最も大きな学びであり、己の盲点についての気づきである。

その上で、最後に、本書にではなく、本書と向き合うぼく自身の「もやもや」も付記しておきたい。

A このような実践が、重層的支援体制整備の担い手として期待されるコミュニティソーシャルワーカーに、普遍的に可能になるのか?
B 住民自治や市民活動支援を通じた住民エンパワメントを志向してきた、コミュニティワークとどう接点を持てばよいのか?

Aについて。正直に申し上げると、この加藤さんのアプローチはかなりレベルが高いと思う。それは、精神医療に関する理解をしっかりした上で、地域福祉と接続させる、というハードルの高さである。精神科ソーシャルワーカーが個別支援に埋没しがちであり、社協の地区担当は地域住民との関わりでいっぱい一杯になる現実において、両者のアプローチを統合させて、個別支援と地域支援の一体的展開を出来るコミュニティソーシャルワーカーはどれだけいるのだろうか、という危惧を持つ。

もちろん、加藤さんもそこは充分承知しておられ、個別支援と地域支援の一体的展開を「一人で行うか、異なる者が連携して行うのかは理論的にはどちらでもかまわない」(p108-109)としている。そしてぼく自身は、「一人では無理な場合が多い」という価値前提から、全方位型アセスメントに基づいたチーム連携や、そこからの多機関協働のあり方を論じる本を仲閒と作ってきた。それゆえに、コミュニティ・ソーシャルワークをこのレベルで出来るワーカーを養成できたら良いけど、それにはどうしたらよいのか、がぼくの中では未知数である。

Bについて。こないだ武庫女で開かれた地域福祉学会の大会シンポジウムで僕はファシリテーターをしたが、コミュニティ・ソーシャルワークとコミュニティ・ワークの価値対立が先鋭化された場面だったと記憶している。もちろん、加藤さんの実践やその理論化には最大のリスペクトを払っている。ただその上で、社協のワーカーがこのようなコミュニティソーシャルワークの担い手として期待されている現状に、一抹以上の不安を抱いているのである。その点について、以前のブログを引用する。

「今回、「社会福祉協議会基本要綱2025」は「国家と社会の不分明地帯」をより大きくするモーメントが働いている。それは、国家に対する社会の自立からの決別であり、「地域福祉の「推進」組織から福祉の「支援」機関化」への変節への危惧である。また、「福祉の「支援」機関化」になるということは、 「国が責任を負うべき社会権の保障を、肩代わり・代替・補完」する可能性の余地を拡げることへの危惧である。」
多様な「読み」が出来る大著

コミュニティ・ソーシャルワークは「国が責任を負うべき社会権の保障」であるなら、これは行政責任として行うべきである。ただ、それを社協が担うことにより、「国家に対する社会の自立からの決別」が生じかねない。それは、住民活動の支援を通じた主体形成やエンパワメント支援を行ってきたコミュニティワークの伝統を、ないがしろ、とはいわないまでも、横に置くことにならないか? コミュニティソーシャルワークの全面展開は、住民の「社会資源化」をもたらし、住民が面白い市民活動をしていくのを応援する社協というスタンスを見失わせないか、が、ずっとモヤモヤ気になっている。

だが、これは加藤さんの論の問題ではない。そうではなくて、今の重層的支援体制整備の「断らない相談支援」が前提となった「参加支援」と「地域づくり」の一体的展開が、住民自治の原則をないがしろにしながら進んでいかないか、ということへの危惧である。

つまり、コミュニティソーシャルワークはあくまでも大枠では、ミクロレベルの個別支援から見えてきた地域課題へのメゾレベルの支援、と矢印が一方的であるが、ミクロレベルとは直接つながらい・直接対象にしないメゾレベルの支援を通じて、ミクロレベルの個別支援に有機的につながっていく部分もあるような気がしていて、そのあたりをどう整理すれば良いのか、がぼく自身はまだよくわかっていない。

いずれにせよ、最後に書いた部分は僕の思考の整理であり、本書の加藤さんの論考が手がかりになったので、それを言語化することが出来た。そういう意味でも、地域福祉に関係する人は是非とも一読してほしい1冊である。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。