意志決定に関与する極意

意思決定について、内科医が書いた説得力ある本を読み終えた。

「患者に対して行われる医療に関する意思決定は、『決める』あるいは『決められる』ものではなく、『決まる』ものとしてとらえる。だとすると、患者自身に限らず、その意思決定に関するやりとりをしている者が行っていることは、『支援』ではなく『関与』であるということは、本書を通じて私が唱えたい主張でもあります。」
(尾藤誠司『患者の意思決定にどう関わるか? ロジックの統合と実践のための技法』医学書院、p92)

医療・福祉の支援を受ける、だけでなく、家や車を買う、裁判や確定申告を行う、など情報の非対称性の大きい領域に関わる時に、私たちは色々な人に「関与」してもらう。これまでなにげに「意思決定支援」とワンフレーズで捉えてきたけど、確かに昨年父の体調が急激に悪化し、要介護状態になり、大学病院に運ばれ、と悪循環をしていた時も、母や弟、僕や妻、だけでなく、多くの人に「関与」してもらいながら、父の支援の方向性が「決まる」プロセスを見てきた。それは僕たち家族だけで決めるわけでもなく、医者に決められるわけでもなく、まさに「決まりゆく」プロセスだった。

そして、「支援」と言わず「関与」の姿勢で関わる尾藤さんは、医師だけれども、「医師モデルの志向が支配的になる」「生活の医療化」として、次の様な問題を指摘する(p43)。

・ある個人を見つめるとき、しばしば「まとも」からの逸脱であり、その逸脱は「まとも」に回帰されなければならない問題点として認識される
・問題はすべて「解決すべきもの」としてとらえられる
・問題には常にその問題を引き起こす主たる「要因」が存在し、要因にアプローチすることで問題が解決される、という手法が選択される
・快楽は優先されるべき価値ではない。「長く、まともでいる」ことが優先される価値として扱われる。
・結果に至るプロセスが最短であればあるほど最善である

「朝から酒を飲んでいる」「風呂に週に一回しか入らない」「部屋がゴミ屋敷状態である」「支援者の説得に応じない」「クラス・職場の同調圧力に馴染めない」・・・これらの「問題」は、「しばしば「まとも」からの逸脱であり、その逸脱は「まとも」に回帰されなければならない問題点として認識される」。だが、そもそもそれは「逸脱」なのか、そもそも「長く、まともでいる」ことがそれほどまでに価値があるのか、と問われると、非常に怪しい。にも関わらず、専門家が一義的に「まとも」「逸脱」と査定する基準を持ち、世間一般の基準と適合できない人を「逸脱」とし、治療の対象にして排除する。この「生活の医療化」は、例えば普通学級とは別室で授業を受ける「通級」の子どもが20万人いる現実とか、「困難事例」「問題行動」が支援現場で忌避される現実とかをみていると、あちこちにあると感じている。

この背景には、問題=逸脱=異常という評価や査定が内包されていて、患者をそう最低評価する医療者は正常=まとも=問題ではない、という二項対立が内包されている。これは病気を他者化する視点であり、患者の持つ、そして医療者だって持っている「生きる苦悩」を矮小化する視点である。(そのことについては以前、「病気」から「生きる苦悩」へのパラダイムシフト : イタリア精神医療「革命の構造」で論じたことがある)

で、尾藤さんの本を読んでいていいな、と思ったのは、この患者の「生きる苦悩」に関して医療者が無知である事を明確に認めて論を立てている点である。

「その他の重要な根拠である『患者の価値・選好』『その他の事情』について、医療者はいわば無知な状態にあるといってよいでしょう。そして、その部分を意志決定の根拠として医療者が補完し、患者とともに熟慮し協議するためには、患者から教えてもらうこと最善の方法です。医学・看護の専門家である医療者は、専門的な知識においては素人である患者に対して意志決定に必要な根拠を提供して補完する役割および義務がある一方で、患者の意向や価値については患者の人生の専門家である患者自身から教えてもらう必要があります。SDMにおける言葉のやり取りは、専門家が患者に対して医学的根拠を伝えるととにに、患者が自身の人生や価値について専門家に教えるやり取りの両方が存在することが条件になるでしょう。」(p66)

SDMとはShared Decision Makingの略で、「共同意思決定」のことである。治療や支援の方針を決める際に関与する専門家達は、「専門的な知識においては素人である患者に対して意志決定に必要な根拠を提供して補完する役割および義務がある」。これについては誰も異論をもたない。ただ、その専門家的目線で、対象者の「問題」や「困難」を、問題=逸脱=異常という視点で評価や査定してこなかった? なぜ・どのようにそのような「問題」や「困難」が社会的に構築されてきたか、という「患者の意向や価値については患者の人生の専門家である患者自身から教えてもらう」視点を持てているか? 専門家が一方的に専門知識を教えるだけでなく、「患者が自身の人生や価値について専門家に教えるやり取り」という双方向の対話がない限り、支援や治療方針が「決まる」ことはない、と喝破している。

これは我が意を得たり、である。社会学者の岸政彦さんはそのことを、「他者の合理性の連鎖と蓄積」と述べているが、その対象者の経験を聞かせてもらい、学ばせてもらうことなく、治療や支援の方針を決定することは、他者の人生の侵襲そのものである。

そして尾藤さんは、専門家と患者の「認識の違い」を意志決定における重要な鍵概念として掘り下げていく。

「ここで私が主張したいことは、患者の認識が、医療者の科学的な根拠に基づいた『専門家としての共通認識』と異なっているとき、評価する側の医療者は、その違いをもって『患者は認識能力がない』と考えるべきではない、ということです。むしろ、患者の主体性を持った認識は、医療者の認識と大きく異なっていることが当然です。」
「患者の認識は、患者が大切にしている信念や価値観としばしば強力に結びついています。私は臨床医として『ステロイドで人生がめちゃくちゃになった人を何人も知っているし、私もステロイドでひどい経験をした。どんなことがあっても絶対に私にステロイドを使わないでほしい』と主張する患者を何人か担当しました。この認識は、医学を専門的に学んだ集団からは荒唐無稽と解釈されます。しかしながら、その認識は、患者の人生の履歴の中で生まれた信念と強く紐付いており、認識する『能力』を有した人の正当な主観として尊重されるものであると考えます。」(p142)

ステロイドをワクチンや抗精神薬、ヘルパーや成年後見制度・・・などと置き換えてもよい。専門家の中では一定の効果や評価が定番となり、それを使うことは「科学的な根拠に基づいた『専門家としての共通認識』」となっている。そういう支援や治療ツールに関して、「どんなことがあっても絶対に私に使わないでほしい」という対象者は、専門家から「荒唐無稽と解釈され」『患者は認識能力がない』とラベルが貼られがちである。でも、尾藤さんはそれをしてはならない!と断言する。それは一体どういうことか?

その前提として尾藤さんは、「患者の主体性を持った認識は、医療者の認識と大きく異なっていることが当然」という認識前提をおく。これは、他者には自分には知り得ない他者性がある、という意味における「他者の他者性」をそのものとして尊重し、理解しようとする姿勢だと思う。それは、特に価値対立をする相手の合理性を知る際に、前提として抑える必要がある。(アメリカにおけうるトランプ主義者の「他者の他者性」を理解しようとしたホックシールドの名著については、ブログで書いたこともある。)

その上で、「その認識は、患者の人生の履歴の中で生まれた信念と強く紐付いており、認識する『能力』を有した人の正当な主観として尊重されるものであると考えます」という尾藤さんの指摘は重要である。「荒唐無稽」「認識能力がない」と専門家が対象者を査定・評価する際、対象者には認識能力がなく判断力に欠ける一方、そう査定評価する専門職には認識能力があり判断力を有する、という価値前提が内包されている。そして、それは対象者にとっては暴力的・差別的で排除的な評価査定基準であり、絶対に許せない事態である。だから、そういう専門家は対象者と大きくもめるのである。

では、対象者の言いなりに専門職はなってもよいのか? そうではない。尾藤さんは「認識する『能力』を有した人の正当な主観として尊重されるものである」と述べている。専門家集団の「主観」とは全く違う「主観」であるが、それは「認識する『能力』を有した人の正当な主観」であることには変わりない。だからこそ、自分たちとは全く異なる「主観」を有する人を、「荒唐無稽」「認識能力がない」と査定せず、専門家から見ると「「荒唐無稽」「認識能力がない」と思えてしまう主観」がどのように・いかなるプロセスで構築されてきたのか、を理解する必要が、専門家の側にあるのである。

その際の補助線として、家庭医療学領域におけるFIFEという考え方も紹介している(p143)。

・F(feeling):その状況についての心配や恐れ、あるいは喜びなど
・I(Idea):病状についての自分なりの解釈に基づく問題とその大きさ
・F(function):病状が生活に与える影響についての解釈
・E(expectation):病状を受けて自分が望んでいることや医療に望んでいる期待

これは福祉現場における「困難事例」「問題行動」とラベルが貼られる事例でも、全く同じ視点での精査が求められると感じた。以前から僕はこれらは「対象者本人が感じる困難・問題」ではなく「支援者や周囲の人にとっての問題・困難」であると、研修等では言い続けてきた。そして、「支援困難事例」の場合、「本人は困っていない様子だが、周囲の人がめちゃくちゃ困っている」という落差があると、しばしば聞く。そして、支援専門職はそういう事例に対して、対象者を「荒唐無稽」「認識能力がない」とラベルを貼っているのだ。そしてそう名指しをすることによって、対象者と良い関係を作れず、悪循環に陥っている。こういう状況って、専門職も「問題の一部」になる悪循環なのだ。

そして、その悪循環から逃れるためには、まず対象者の価値観について「認識する『能力』を有した人の正当な主観として尊重」する必要がある。その上で、自分の常識・視点・価値観とは違う主観を、そのものとして理解するために、FIFEの視点で、専門職が対象者の内在的論理を教わる必要があるのである。

「意志決定において患者に不安が発生しないのは、望ましいことでしょうか? 私はむしろそこに不安が出現するべきだと考えています。なぜなら、不安とともに患者は自らの欲望を形成するからです。欲望形成支援のところで述べたように、欲望の形成はそれほど自然に発生するものではありません。自分は何を求めていて、何を避けたくて、何を恐れていて、何を大事にしたいのか、という複雑な思考の中で欲望が形成されていきます。さらには専門家から将来の見通しや起こりうる事象について情報が提供されることで、患者は自分の欲望を明確にしていきます。」(p182)

この部分も非常に重要である。そもそも、「不安」がない・少ない問題であれば、人は一人で意志決定が出来る。むしろ、一人で決められない状況だからこそ、他者の関与が必要になるのだ。それは、情報の非対称性が大きかったり、自分一人では解決できないと絶望的な気分になっているなど、いずれにせよ不安が強い局面である。そして、その不安がドライブになって、「自分は何を求めていて、何を避けたくて、何を恐れていて、何を大事にしたいのか、という複雑な思考の中で欲望が形成されていきますと尾藤さんは喝破する。

パターナリズムで「いい子」の支援者ほど、不安を出来る限り早急に減らしたくなる欲望を持つ。でも、それは対象者の欲望ではなく、支援者自身の欲望であると認識すべきである。尾藤さんが書いているように、この不安と丁寧に支援者が向き合うことによって、「自分は何を求めていて、何を避けたくて、何を恐れていて、何を大事にしたいのか」というコアな人生の価値観と本人は向き合うのである。そのなかで、「こうしたい」と欲望を形成していくプロセスに支援者が関与できるかが問われているのである。

「安心は、結果として得られる感情状態です。安心そのものを医療者が患者に提供することはできないし、『安心してください』と患者に強要、あるいは懇願することも効果的な行動とは思えません。」(p181-182)

安心は不安の裏返しである。不安になるな、と強要・懇願しても、不安な人はその命令に従えない。だからこそ、不安な気持ちを徹底的に聞かせてもらい、一つずつその様相を解消していくプロセスに支援者が関与することで、「結果として得られる感情状態」としての「安心」が生まれてくるのである。

まだまだ引用したい箇所は一杯あるが、だいぶ長くなったので、最後、一カ所だけ引用しておく。

「AIを搭載したコンピュータやスマートフォンが、医療の意志決定を支援するための優れた『情報端末』として、現在よりもずっと有用性が高く利用される時代が到来したとき、生身の医師や看護師の仕事は、意志決定にまつわるドラマの中で絶えず変容する患者の理解・認識・価値・感情に対して、対話という技術を用いて応答していく『感情端末』としての役割なのだといえます。」(p127)

尾藤さんは生成AIが使える初期段階から色々使い続けた上で、上記の箴言に至った。これも僕が考えていたことを言語化してもらった、と思い、我が意を得たりである。

生成AIが登場する以前の20世紀中盤、アメリカの社会学者、アミタイ・エチオーニは医師と弁護士は完全なる専門職(full-profession)であり、それと対置する形で、看護師と教師、ソーシャルワーカーは準専門職(semi-profession)だと述べていた(関連するブログはこちら)。高度な知識や技術に基づく医師や弁護士は、それだけの報酬に値する職業と位置づけられ、多くの国では高額報酬を手にしている。

でも、生成AIが登場すると、どんなに高度であっても、標準的な知識は生成AIが瞬時に代替出来る。だから、弁護士に頼まなくても本人訴訟の準備書面は書けるし、専門医ではない普通の医師の診断と遜色ない診断が生成AIには出来るようになった。つまり20世紀の弁護士や医師が誇っていたfull-professionの前提が、大きく崩れているのである。

その状態において、専門家に求められる能力とはなにか。尾藤さんはそれを「意志決定にまつわるドラマの中で絶えず変容する患者の理解・認識・価値・感情に対して、対話という技術を用いて応答していく」と述べている。そう、これは看護師がベッドサイドで、教師が教室で、ソーシャルワーカーが相談室でやってきたこと、そのものである。つまり、生成AI登場以後の意志決定支援において、実は20世紀型のsemi-professionとfull-professionの価値前提がひっくり返る。標準化・規格化された知識なら、医者や弁護士がいなくても、生成AIで事足りる。むしろ、「絶えず変容する患者の理解・認識・価値・感情」を対話を通じて聞き出し、そこにあったオーダーメイドの支援を形作ることができるか、が問われているのである。「情報端末」はスマホやPCで充分。であれば、いかに専門職が「感情端末」として、対象者の意志決定に対話を通じて関与できるか、が大きく問われているのだ。

この本はこれ以外にも考えたい論点がめちゃくちゃあり、興味ある方は是非ともご一読をオススメする。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。