多様な「読み」が出来る大著

本というのは、購入してすぐ読むものもあるが、大半の場合、寝かせておく。今回ご紹介するのは、「14年モノ!」の分厚い大著である。若い友人達が研究会で読みたいというので、学期末の死ぬほど忙しい時期に、なかば渋々・なかば時間がなくて必死になって読み終えた。でも途中からぐっと惹きつけられていった。

「当事者運動は、右派からの『偽善』という批判に対する一つの答となる。その意味論形式は、自らのポジショナリティを発話位置に捉えることを通して、<贈与のパラドックス>も『偽善』表象の発生も抑えることが可能である。『自分たちの政治的実践は、自分たちのため』であり、その意味で『当事者主権』は<交換(win-win)>の文法で語ることが出来る。それ自体として全く正当な『当事者主権』の論理は、しかし、右派も使用可能な意味論的形式である。右派は、今ある『私』から『われわれ』の範囲を所与の『国民』や『民族』に設定し、その範囲のみを擁護する。またいわゆるゲイテッド・コミュニティも当事者主権のレトリックで擁護可能である。
一方で、左派においては『当事者主権』を掲げる立場であっても、 抑圧されている他の立場との連帯を志向する場合が多い。つまり、自らが被抑圧者であることをアイデンティティ・ポリティックスの賭金としつつも、自らの抑圧性に対しても敏感であり、それを通して他者へと開かれる。また、亀裂を生み出す支配的な構造を構成的外部として、『われわれ』という共通のカテゴリー(=当事者性)が構築・拡張され、『当事者主権』の意味論が継続される。しかし、『当事者』概念が拡張すればするほど、<贈与のパラドックス>の観察—「左翼仲間であり続けるべく『弱者の味方』自己イメージにすがる、『ヘタレ左翼』」—が発動する余地を拡げることになるだろう。多くの左派にとって、その『当事者主権』論は、その論理だけでは自らを記述しきれず、所与のカテゴリーやアイディンティを組み替えて他者へと跳躍し続ける、という論理の外部こそが重要な賭金となる。」(仁平典宏『「ボランティア」の誕生と終焉—〈贈与のパラドックス〉の知識社会学』名古屋大学出版会、p435)

優れた著作とは、10年15年の時を経てもその分析内容が古びることなく、普遍的な価値を提供する作品である。僕と同じ1975年生まれの仁平さんが、東日本大震災の直前の2011年2月末に出版したこの本は、2008年に出された博士論文を書籍化されたものである。36才でここまでボランティアをガッツリ捉えていたのか、と思うと、本当に驚愕の論の深さである。あちこちに線を引きまくりながら読んでいたのだが、最も痺れたのが、終章で書かれた、僕が障害者運動の「アライ(=ally:仲間)」としてなじみ深かった当事者主権に関する論考だった。

「右派は、今ある『私』から『われわれ』の範囲を所与の『国民』や『民族』に設定し、その範囲のみを擁護する。またいわゆるゲイテッド・コミュニティも当事者主権のレトリックで擁護可能である。」

そんなこと、考えたこともなかった! が、言われてみたら、確かにその通り。直近の参議院選挙では「日本人ファースト」の旋風が一部吹き荒れたが、あれは「今ある『私』から『われわれ』の範囲を所与の『国民』や『民族』に設定し、その範囲のみを擁護する」「当事者主権のレトリック」そのものである。だが、そのレトリックの問題点も、しっかり仁平さんは指摘してくれている。

「自らが被抑圧者であることをアイデンティティ・ポリティックスの賭金としつつも、自らの抑圧性に対しても敏感であり、それを通して他者へと開かれる。」

そう「自らの抑圧性に対しても敏感」であるかどうか、が「当事者主権」が排除型になるか、包接型になるかの分かれ目であり、これが右派と左派の分岐点である、と。そして、優れた論考は、今振り返って読むと、その当時には主題化されていなかった別の議論との接続可能性をも内包している。

「多くの左派にとって、その『当事者主権』論は、その論理だけでは自らを記述しきれず、所与のカテゴリーやアイディンティを組み替えて他者へと跳躍し続ける、という論理の外部こそが重要な賭金となる。」

これは抽象度が高くてわかりにくいが、今ならインターセクショナリティとの接点として捉えることも出来そうだ。(インターセクショナリティについては、以前のブログも参照)

抑圧されていると感じる障害者男性も、実は女性差別という別の差別には加担しているかもしれない。障害のある女性であっても、例えば在日外国人や被差別部落の人には無関心かもしれない。このような、交差する様々な権力関係を前提に、「人種、階級、ジェンダー、セクシャリティ、ネイション、アビリティ、エスニシティ、そして年齢など数々のカテゴリーを、相互に関係し、形成し合っているものとして捉える」のがインターセクショナリティとして近年言語化されてきたが、このインターセクショナリティ概念の論点において、仁平さんの言う「所与のカテゴリーやアイディンティを組み替えて他者へと跳躍し続ける、という論理の外部こそが重要な賭金となる」のである。

そして、この本の主旋律は、ボランティアという言動に常につきまとう「偽善」という呪いとどう歴史的に向き合ってきたのか、である。それを<贈与のパラドックス>と述べている。

「近代的な権力は、善意を装い贈与するふりをして、決定的な負債を与える存在として概念化されてきた。<贈与>は、贈与どころか、相手や社会にとってマイナスの帰結を生み出す、つまり反贈与的なものになるというわけだ。この意味論形式を、本書では<贈与のパラドックス>と呼びたい。<贈与>表象は、<贈与のパラドックス>の意味論に準じた観察を不可避的に生み出す—これは本書の中核的な仮説/仮定である。」(p13)

善意に基づく贈与としてのボランティアが「偽善」と見なされる。その背景には、「善意を装い贈与するふりをして、決定的な負債を与える存在」としての「近代的な権力」がある。それは、「ボランティアこそ私の敵 私はボランティアの犬達を拒否する」と痛烈にボランティアを拒否した、花田えくぼさんの「ボランティア拒否宣言」とつながっている。仁平さんはこの文章を引用した後、「無償の、愛情に満ちた<贈与>行為こそが、『障害者』を障害者役割にとどめ、その可能性を根こそぎ奪っていく」(p34)と付け加える。これが「善意を装い贈与するふりをして、決定的な負債を与える存在」としての「近代的な権力」行使的ボランティアなのである。まさに、一見正しく見えるが矛盾した表象としてのパラドックスそのものであると言える。

本書はボランティアという言葉がどのように用いられてきたか、奉仕という類似概念とどう交錯しているかを丁寧に辿りながら、ボランティアに常につきまとう<贈与のパラドックス>がその時代時代でどのように表象され、あるいはそれと向き合ってきたのか、を歴史社会学として辿っている。そして、第二次世界大戦後、一般市民の戦争への動員論である社会奉仕と線引きするための、「社会の民主化」の二要件として、ボランティアには二つの要件が求められる(p94-96)。

①国家に対する社会の自立:民主化の前提として、国家と社会の不分明地帯に切り込みを入れ、社会を独立した審級として自律させること
②国家による社会権の保障:国が責任を負うべき社会権の保障を、肩代わり・代替・補完しないこと

ボランティアを少しでも囓ったことがある人なら、この二要件の厳格な遵守は難しいとわかると思う。①確かに戦時中の隣組による相互監視は、ボランティアとしてなされていた。だからこそ、そのような権力監視・行使の内面化を防ぐためには、ボランティアは国家から自立することは不可欠だ。とはいえ、そうなると、ボランティアの募集や、ボランティアの運営に国の補助金などを投入することは、そのボランティアの自立性を疎外することになる。しかし実際にボランティアを継続する上で、財政面もボランタリーで継続するのは難しい。そこで、登場するのが中間支援組織としての社会福祉協議会である。本書は実は「ボランティアを通じた社協分析」としても優れている。

②については、「ボランティア拒否宣言」のなかでも、「ボランティアの犬達はアテにならぬものを頼らせる」と書かれていた。ボランティアはするもしないも自発性に任されている。障害者介助だって、ボランティアは、したくなければ、しなくていい。でも、介助を受ける障害者は、してもらわないと生活していけない。その意味で、「国が責任を負うべき社会権の保障を、肩代わり・代替・補完」されると、「アテにならぬものを頼らせる」状態が続き、障害者の生存権が脅かされたまま、国の責任放棄が認められてしまう。だからこそ、障害者運動は介助の公的制度化を求めて「当事者主権」論を主張してきたし、21世紀になってやっと重度訪問介護のような形で、ボランティアの介助は国レベルでの制度化にこぎ着けたのである。その意味で、民主化要件①と②はめちゃくちゃ重要なのである。

で、先に述べかけた、社会福祉協議会の成り立ちを、仁平さんは以下のように整理する。

「社協は『施設や地域社会との間に、より緊密な有機的組織を作るのが第一のねらい』であったが、同時にそれを通して—町内会とは異なり—地域社会を民主化していくことも期待された存在でもあった。この社会福祉協議会の思想基盤は—実は共同募金を支える理論的根拠ともされていたのだが—アメリカで盛んであったコミュニティ・オーガナイゼーション論であった。コミュニティ・オーガナイゼーションとは、その主要な紹介者の一人でもある牧賢一によると、『当該地域社会における各種福祉団体の参加を原則として、それらの団体のもつ専門的指導計画の立案、社会資源の造成と活用、連絡調整、住民の福祉教育、ソーシャルアクションなどの諸機能を総合的に実践すること』と定義される。この時期のコミュニティ概念は、アメリカからのコミュニティ概念を、日本で大正期に定着した<社会>の想像力の中で捕捉していたという側面があるが、そのイメージのもと、『「われら意識」を根底とした福祉の社会的有機体機構を育成すること』だという理解があった。この点から、地域住民は、「われら意識」に貫かれた<社会>=コミュニティに対して主体的・自発的に参加していくということが肯定され、社協はその構造を作り出していくという主要な存在になる。」(p110)

この本を、2011年でなく、2025年に僕は読んで本当に良かった。まず、社協がこういう成り立ちで設立されたのは、僕は不勉強でうっすらとしか知らなかった。にも関わらず、社協の研修とか地域福祉活動計画策定のお手伝いに結構関わってきた。つまり社協実践にこの15年くらいの間に濃厚に関わり、姫路に引っ越して、関西のコミュニティワークの実相に触れる中で、社協に関してモヤモヤしてきたことが、この本を読んでクリアになったからである。

社協は、民主化要件①と②をクリアし、またその当時危機として迫っていた「『過度』の『民主化』=社会主義化」も警戒し、「地域においてアメリカ型民主主義を着床させる役割」(p109)として「上からの民主化」の役割として期待された存在が、その設立経緯にあった。「地域社会を民主化していくことも期待された存在」であった。だからこそ、「アメリカで盛んであったコミュニティ・オーガナイゼーション論」がその思想基盤にあり、「地域住民は、「われら意識」に貫かれた<社会>=コミュニティに対して主体的・自発的に参加していくということが肯定され、社協はその構造を作り出していくという主要な存在になる」未来を目指して、社協がスタートしたのである。

そして、民主化要件①と②とも関わるこの設立の当初目的を、真面目に護っているのが、関西のコミュニティワーカー達だと整理すると、僕の中で非常に合点がいくし、先月の地域福祉学会の大会シンポジウムで死ぬほどモヤモヤしたことも、氷解する。

今、地域福祉の業界では、コミュニティ・ソーシャルワーク(CSW)とコミュニティーワークの両者を巡る言説争いが激しい。前者の方は、NHKのプロフェッショナルにも出た、豊中市社協の勝部麗子さんに代表されるように、支援が必要な個人に寄り添い、その中から地域課題を見つけて解決していくアプローチである。彼女たちの活動は社会的に評価され、国もそのCSWの活動に着目し、重層的支援体制整備事業の中で、「断らない相談支援」「参加支援」「地域づくり」として制度化も果たした。そして、全国社会福祉協議会も、今年に改定した「社会福祉協議会 基本要綱 2025」のなかで、この重層的支援体制整備の担い手の主要なアクターとして活躍出来るように、名乗りを上げている。

ただ、これに対して、主に関西の社会福祉協議会の有志(関西社協コミュニティワーカー協会)が中心になって、反論している。

「社会福祉法の改正以降、特に包括的支援体制の自治体努力義務化により、地域福祉の政策化・施策化が進められました。その中で、社協が制度福祉の委託機関として位置づけられる傾向が強まり、社協の存在意義が「生き残り」の観点で語られるようになっています。事業委託による官民関係の主従化、また、地域福祉計画と地域福祉活動計画の行政主導の一体化が進むことで、社協の自律性・民間性が低下していることも課題です。」(「基本要項改定からこれからの地域福祉を考える研究会」報告書

2017年に姫路に引っ越してきて以来、関西の社協は住民自治や住民主体をすごく大切にしていて、それまで僕が付き合ってきた東の地域の社協とはずいぶん違うなぁ、と漠然と感じていた。それは単に関西が独特なのではなく、「事業委託による官民関係の主従化、また、地域福祉計画と地域福祉活動計画の行政主導の一体化が進むことで、社協の自律性・民間性が低下していること」への危機感である。そして、「地域住民は、「われら意識」に貫かれた<社会>=コミュニティに対して主体的・自発的に参加していくということが肯定され、社協はその構造を作り出していくという主要な存在になる」という社会福祉協議会の成り立ちが変質することへの異議申し立てを、関西のコミュニティワーカー達は行っているのである。そして、それは仁平さんの示した「「社会の民主化」の二要件」とも重なる。

①国家に対する社会の自立:民主化の前提として、国家と社会の不分明地帯に切り込みを入れ、社会を独立した審級として自律させること
②国家による社会権の保障:国が責任を負うべき社会権の保障を、肩代わり・代替・補完しないこと

今回、「社会福祉協議会基本要綱2025」は「国家と社会の不分明地帯」をより大きくするモーメントが働いている。それは、国家に対する社会の自立からの決別であり、「地域福祉の「推進」組織から福祉の「支援」機関化」への変節への危惧である。また、「福祉の「支援」機関化」になるということは、 「国が責任を負うべき社会権の保障を、肩代わり・代替・補完」する可能性の余地を拡げることへの危惧である。そう捉えた時、住民自治や住民の主体的活動を支援してきた関西のコミュニティワーカー達が、今回の基本要綱改正のどこに危惧を抱き、何に反発しているのかを理解する為にも、この仁平さんの優れた大著は補助線になるのである。

あれ、気がついたらボランティア論ではなく社協論を縷々述べてしまっていた。本書はボランティアと政治の関係について、あるいは右派と左派のボランティアがどのように変遷していったかも辿っていて、議論したい内容はいろいろある。なんせ、僕自身も阪神淡路大震災の後のボランティア経験が大きなきっかけになり、卒論は『ボランティアと政治』というタイトルで書いたし、その後入った大学院は、大阪大学大学院人間科学研究科ボランティア人間科学講座、というまさに震災後に出来たボランティアの学際的講座だった。だが、僕は東日本大震災の後の震災現場でボランティアをすることが出来ず、そのモヤモヤも抱えたままだった(その僕自身のボランティアへの挫折やモヤモヤは、『モヤモヤのボランティア学』の中に一章書いております)。そして、自分が所属した講座も、大阪外大の吸収合併に伴う阪大の学部改組の中で消滅してしまう。そういう意味では僕は「ボランティア講座の誕生と終焉」も垣間見てしまうのだが、そんな背景を持っているが故に、本書は他人事として読めず、自分事として読んだし、また読み返したい一冊である。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。