このところのブログは、何だか堅い意見書モードになっている。本当はもう少し柔らかい普段のドタバタ話や、あるいは最近読んで感動した本の書評なども書き連ねたいところだが(紹介していない良い本も沢山ある)、どうもそうはいかない流れのようだ。
昨日の毎日新聞社説では「社説:新障害者制度 凍土の中に芽を見よう」として、総合福祉部会の事が取り上げられていた。その内容を読むうちに、むくむくと意見がわき上がってきた。だが、社説は無記名で誰が書いたかわからない性質。なので、宛名を「社説さま」とした上で、お手紙を書いてみることにした。
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拝啓 毎日新聞社説さま
山梨学院大学で教員をしています、竹端寛と申します。
このたびは、2月12日の社説で、障害者制度改革のことを取り上げて頂き、誠にありがとうございます。原発災害や被災地の復興問題など国内の諸課題は山積する中で、マスコミはなかなかこの制度改革のことをしっかり取り上げてくださらなかったので、まずは社説という「新聞の大看板」で取り上げて頂いたことに、心より御礼を申し上げます。
私は、この社説で取り上げられた、内閣府の障がい者制度改革推進会議の総合福祉法部会の委員をしております。なので、社説で取り上げて頂いた事を感慨を持って読ませて頂く一方で、記事全体を通じて、選択的・一方的な事実の解釈に関する違和感を感じざるを得ませんでした。もちろん社説とは、事実報道とは一線を画し、社としての主張を堂々と掲げることがその旨とされておられるのですから、事実の解釈に、読者とのズレがあっても当然です。ただ、本当に十分に取材をされた上での社説なのだろうか、何らかの決めつけや先入観に基づく文章ではないか、という違和感を持ちましたので、敢えてこのような形で対論の文章を書かせて頂きます。
まずこの社説は、現行の自立支援法について、大変高い評価をしておられます。曰く、自立支援法になったことによって、予算規模は2倍になった、4月からの改正自立支援法でさらにサービスは拡充する、と。まるで厚生労働省の某企画課長が乗り移ったのか、と思われる意見の後、「そういした流れから隔絶したところで部会の議論は行われてきたのではないか」と書かれています。この部分については、失礼ながらこれを書かれた記者の方は「本当にこの部会を丁寧に取材されたのか?」と訝しくなってしまいます。
私たちが議論をした総合福祉部会は、厚生労働省と自立支援法違憲訴訟団との裁判所での和解の基本合意文章に基づき、「自立支援法廃止と25年8月までに新たな法制定」を目指して作られた部会です。そして、去年の夏にはその新法の骨格提言をまとめました。この骨格提言をお読み頂ければ、自立支援法の改正法ではどうしてダメなのか、の理由がご理解頂けると思います。その事は、僭越ながら私のブログでも何度か書かせて頂きました。(厚生労働省案への意見書、骨格提言というパラダイムシフト) ただ、お忙しい記者の方の為に、簡単にその概要と論点を書かせて頂きます。
1,自立支援法は、入所施設や精神科病院での支援が前提となっている法律です。予算規模でも、入所・入院にかけられている財源は、地域生活支援の倍以上です。これはこれまで我が国が隔離収容を中心とした名残であります。記事では予算がこの10年で倍になった、と書かれていますが、入所施設や精神科病院の予算には上限がない一方、地域で重度の人を支えようとしても、国庫負担基準という予算制約があるため、入院・入所を余儀なくされる人が沢山います。
2,自立支援法では、市町村や障害種別での格差が広がるばかりです。先述の通り、入所施設や精神科病院は他国に比べて数倍用意されている一方、障害がある人の地域生活を支える資源は、三障害の間で、あるいは市町村によって、本当に格差が大きいままです。自立支援法では「地域生活支援事業」という市町村に裁量権を与える事業を組み込みましたが、予算を十分に充当することなく市町村に責任と権限だけを丸投げした為、現場では大混乱が起きています。やる気と財政力ある自治体では、重度障害者のホームヘルパーについて、単独助成を出す等の支援をする一方、財政力が乏しい(平均的な)自治体は、国基準以上の支援が必要な人は「自治体では面倒見切れない(ので、施設に入所してほしい)」と支給決定時に促す事態も散見されます。この国では、「どこで、何の障害を持って暮らすか」で、支援の明暗が分かれる、という実に不幸な事態が続いています。
3,その背後に、法理念が具体的な支援方法に及ぼす影響、というのが挙げられます。自立支援法は「障害は個人の不幸であり、健常者に近づくことが自立」という考え方(これを障害の医学モデルと言います)に基づいた法律です。これは能力主義とも一致し、「○○出来る人は地域生活してもよいが、出来なければ施設入所しかない」という隔離収容の発想とも通底しています。一方で、多くの障害当事者や家族、支援者が求めて来たのは、「障害故に社会参加できない、その社会的障壁を越えるための支援が必要だ」という考え方です(これを障害の社会モデルといいます)。現行の自立支援法は、その人員配置基準なども、第二次世界大戦後すぐに作られた身体障害者福祉法、精神薄弱者福祉法、精神衛生法の延長線上の法律です。その当時は、重度障害者は「入所施設や精神病院に入るのが当たり前」でしたから、そこに重点的な予算配置をし、それ以外にはあまり力を入れない法律でした。現在もその大枠が続いている為、あまりにも現実の実態とは違う、世界的な障害者の地域生活支援のうねりともかけ離れた法律である、と批判されて来たのでした。
4,自立支援法やその改正法は、障害者団体の間でも残念ながら賛成と反対の真っ二つに分かれました。それは「雨漏りしている現行法を手直しすることが障害当事者の今すぐの生活に求められる。新たな法制定は時間がかかるが、障害者は待っていられない」という現状肯定型アプローチと、「そもそも現行法は隔離収容という古い思想に基づいた法体系であり、今の障害者の地域生活支援中心という実態・国際的動向に合致していない。だから、土台から作り直さないと、既に破綻しているし、中長期的な展望が開けない」という現状打開のアプローチの葛藤でした。どちらも一理ありますが、国は前述のように、「雨漏りの補修ではなく、土台から作り直す」という新法制定を約束したのです。骨格提言も、手前味噌な話ですが、土台をどう現実的に作り直したら、20年、50年先も障害者が安心して暮らせる法律になるのか、の柱が示されていました。ただ、こないだの部会で示された厚生労働省案は、その骨格提言の主旨を無視して、依然として「雨漏りの補修案」しか書かれていなかったので、多くの部会構成員が怒りを禁じ得なかったのです。
5,総合福祉部会の骨格提言は、確かに厚生労働省の官僚に主体的に関与して頂く事なく、作り上げました。そのことをさして、「官僚を排除して壮大な内容の提言をまとめても、それを法案にするのは官僚なのである」と書かれています。これは、事実の一部だけを切り取ったものではありませんか? なぜ「官僚を排除」する必要があったのか、についての理解をされておられますか? 社説では千葉の差別禁止条例作りも取り上げられていますね。千葉の場合、社説で書かれているように、堂本知事の政治主導の下で、全く前例のない条例を作り上げる為に、官民が一体となって条例を作り上げました。一方、総合福祉部会の場合、現行法を作り替える、というのがミッションでした。また、社説で書かれているように、総合福祉部会は担当大臣が7人も替わるなど、政治主導とはほど遠い状況でした。その中で、厚労省は「政治主導は形だけであり、どうせ根本的に変えられっこない。その財源も政治家はとってこれないはずだ」と高をくくっていたと思われます。事実、私たちの部会では、厚労省のコメントなどに代表されるように、常に上から目線で、かつ「出来ない言い訳」探しに終始している、内向きな議論でした。「土台を作り替えよう」と呼びかけても、「雨漏りの補修以外には絶対出来ない」と言い張っている人に、同じテーブルの場で議論についてもらえるでしょうか? 確かに部会はその努力をすべきだったかもしれませんが、一方で厚労省からは、去年の8月までに骨格提言を作らなければ法案化は絶対無理だ、と抗弁もされ、十分に厚労省と議論する時間すら与えられていなかったのも、また、事実です。そのような、厚生労働省側の、現行法を頑なに維持し、新法制定に向けた議論を拒もうという姿勢も、取材されましたか?
6,現行法だって密室を脱却した、という評価として、今春から適用される障害福祉サービスの報酬単価を決める議論の過程の公開、も社説で書かれていますね。確かに公開ですが、あの議論と今回の総合福祉部会とでは、公開の意味合いと重みが違うと思いませんか? 報酬単価の議論を過程の公開は、確かに画期的ですが、その主導権は、あくまでも厚労省が握っています。どのような内容を議論し、誰を呼んで話を聞くのか、の論点整理権と人事権は厚労省が握っています。つまり、決定権はあくまでも官僚が握っている訳です。その中では、漸進的な変化はあっても、あくまでも「所与の前提」の中での変化です。一方、総合福祉部会だってその議論の過程を公開していますが、この人事権と論点整理権を厚労省が握らず、内閣府の障害者制度改革推進会議の担当室が担ったことにより、部会三役が、厚労省の主導に屈することなく、部会員の考える骨格をまとめる事が出来ました。だからこそ、現行法(=「所与の前提」)に縛られない、画期的な案を出すことが出来た訳です。確かに一部、出過ぎた部分もあるかもしれませんが、その部分のみを捕まえて、「壮大な内容だ」というのは、議論を重ねてきた55人の委員会全体に対して、あまりの表面的批判ではありませんか?
7,この社説は「批判するだけでいいのか。障害者福祉の行方を大局観にたって考えてはどうだろう」と書かれています。では、お尋ねしたいのですが、大局観とは、詰まるところ、官僚主導による現行法の固守(=雨漏りの補修)のみでよい、ということなのでしょうか? 官僚主導の逆機能を跳ね返す、総合福祉部会の骨格提言を簡単になおざりにすることも、「大局観」からみたら、仕方ない、ということなのでしょうか? であれば、20年後、50年後に今の自立支援法が本当に持つ、とお考えなのでしょうか? いずれは介護保険法に吸収合併されるのも仕方ない、という「大局観」なのでしょうか? そして、この介護保険法への吸収合併こそ、障害当事者が、その支援の内容や質がなおざりにされる可能性がある、として拒み続けてきたものであり、上述の基本合意文章でも「現行の介護保険法との統合を前提としない新法を作る」と約束されていることを、ご承知でしょうか?
そういえば、毎日新聞社には、この社説で取り上げられた千葉の差別禁止条例作りの立役者であり、報酬単価のアドバイザーもつとめ、障害者の立場に立った取材を続けてこられ、また私たちの総合福祉部会のメンバーでもあられる野沢さんがおられますが、社説を書かれた方は、野沢さんにきちんと取材されているのでしょうか? ただ、野沢さんは他の審議会や虐待防止関連の研修などで全国を飛び待っておられてお忙しかったようで、総合福祉部会では欠席や一部参加が多く、じっくりこの部会や作業チームの場で議論されていないように見受けられました。なので、もしかしたらこの部会の動きについては「よくわからない」と仰られたのかもしれませんね。であれば、総合福祉部会の部会三役や、主立ったメンバーにきちんと取材されて、社説にまとめて頂きたかったです。単なる批判は勿論建設的ではありませんが、あまりにも官僚や現行法のみを持ち上げるのも、また建設的な議論ではない、と感じています。
そうはいっても、今回、こうして毎日新聞の社説という大看板で、こうして社としてのお考えを出して下さったからこそ、私も自分の意見を対論という形で表明するきっかけが当たられました。そのことに、心から感謝申し上げます。
これからも、様々な角度から取材され、障害者制度改革や、自立支援法の改正か新法の制定かの駆け引きの議論などについて、建設的な取材とご提言を頂ければ幸いです。私でよろしければ、いつでも全面的に取材には協力させて頂きます。
「凍土の中の芽」とは、このような、双方の主張を包み隠さずにオープンにしながら、世論にその判断を委ねる中からこそ、生まれてくるものである、と信じています。
竹端寛拝