フーコーという補助線

久しぶりに何もない土曜日。昨日は終電で帰ってきたので11時過ぎまでぐっすり眠り、昼からのんびり読書。こういう平安なる一日が、最近はなかったなぁ、と反省。

お供の音楽は、芸事の導師さまが教えてくださったRCAのLiving Stereo限定復刻版60枚組。日本では売り切れでアマゾンでは2万円が付いていたが、アメリカのアマゾンではまだ在庫があって、送料込みで1万5000円弱。LP録音の最高峰・最良の弾き手・曲目を一枚250円で楽しめるのは、何という贅沢。今年に入ってから、同僚のH先生が、芸事に詳しい導師としてクラシックの世界の奥深くに誘ってくださっている。デュプレやグールド、ペレイラにカザルスといった特定の音楽家の作品しかよく知らず、チェロやピアノの協奏曲が多かった僕にとって、たとえばサンソン・フランソワのショパンに出会ったこと、幻想協奏曲の魅力を知れたこと、あるいは上記の60枚組で未知の楽曲・弾き手とご縁が出来たことは、誠にありがたい限り。自分の使っていない領域が拡がる思いだ。
という前ふりを書いていたら、今日主題化したい内容と結びついていることに、今気づいた。さて、今日のフックはいつもの内田樹さんから。
「日常的な経験からも分かるとおり、私たちは決して確固とした定見をもった人間としてテクストを読み進んでいるわけではありません。(略)テクストの方が私たちを『そのテクストを読むことができる主体』へと形成してゆくのです。」(内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書p125)
これは今の自分には深い納得が出来る。テクストを楽曲と変えたら、僕自身のここしばらくの変容そのものを体現しているからだ。
「私たちは決して確固とした定見をもって人間として楽曲を聴き進んでいるわけではありません。楽曲の方が私たちを『その楽曲を聴くことができる主体』へと形成してゆくのです。」
僕自身、先達である導師さまに薦められ、自分の興味関心のレインジにはまる楽曲を聴き進めるなかで、「楽曲の方が私たちを『その楽曲を聴くことができる主体』へと形成」してきたのである。これはワインでも同じで、ワインの導師様であるMさんにずっと8年ほどお世話になり、Mさんからワインを買い続けているからこそ、自分の中での「ワインを楽しむことができる主体」が創り出されてきたのだと思う。このようなご縁と繋がりによる豊穣な何かとのアクセス、ほど愉悦的なものはない。
・・・と書いてみて、この文体そのものが、実は内田先生のエクリチュールを結構拝借しているなぁ、と改めて感じる。特にこの「愉悦的なものはない」なんて書き方、以前の僕はしなかった。実は昨日、大学時代の仲間と久しぶりに新宿で飲んでいたのだが、このブログをたまに読んでくれている友人が二人ほどいて、そのうちお一人の麗しきNさんから「タケバタはどんどん学者っぽい文章になっているなぁ」と言われた言葉が引っかかっていた。彼女は企画戦略を練る部署で企業戦略を端的に一枚で伝えるための仕事をしている、という。その立場から見ると、僕の文章は確かに回りくどいし、ブログに用いる語彙もどんどん抽象的なものが増えてきている。言われるように「学者的」なのかもしれないが、それは半ば意識的に、内田樹氏のような知性に憧れ、それを勝手に文体として真似て学ぼうとしているからなのかもしれない。
で、文章がうろうろしているが、実はその内田樹氏の思考プロセスと近似している内容を、別の著者によるフーコーの入門書の中に見いだした。
「この読もうとする主体の中に存在する<盲目性>に、フーコーは固執し続ける。眼の構造には、眼自体を見ることができないという盲点があるが、読むという行為にもある読み得ない<盲点>が存在する。それが意識されないことによって、そもそも読む対象として構成されず、気づかれない領野が存在するのである。」(中山元『フーコー入門』ちくま新書 p17)
この「読むという行為にもある読み得ない<盲点>が存在する」という記述に出会ったときに、僕は数日前に読んだ内田先生による以下の文章を強く思い出さずにはいられなかった。
「つねづね申し上げているように、情報というのは実定的なものには限られない。
実定的な情報のピースを並べて、「絵」を描くことは可能だし、「当然このことについて報道されていてよいはずの情報」が組織的に欠落している場合にも、そこで何が起きているかを推察することは可能である。
要は「文脈を読み当てる」ということである。」(内田樹「なぜ日本に米軍基地があるのか?」
彼は「毎日新聞」を読む中で、公安調査庁が「どういう情報ソースを基におまえは文章を書いているのか?」と疑わせる程の確度の深い『街場の中国論』を叙したと書いている。その事が、新聞報道を読むだけで(ということは特定の深い情報源にアクセスせずに)なぜ可能になったかの理由を書いている上述の部分で、「文脈を読み当てる」と書いている部分が興味深い。つまり、書かれていること、だけでなく、「組織的に欠落している」「当然このことについて報道されていてよいはずの情報」に気付き、そこから推察することで、「文脈を読み当てる」ことが可能だと書いている。これは、読む対象(=書かれていること)にのみ没入するのではなく、「読み得ない<盲点>」があるということに気付き、そこに配慮や眼目を注ぐ、ということに他ならない。そして、「読み得ない<盲点>」も含めて、誰がどのような事を言ったか・言わなかったか、というコインの両面をパズルのように組み合わせ、その推察の中から「文脈を読み当てる」という思考であり、それをフーコーは「系譜学」として高めていったのである。
実はこのことは、内田先生自身が、フーコーに寄せた文章で次のように書いている。
「フーコーはそれまでの歴史家が決して立てなかった問いを発します。それは、『これらの出来事はどのように語られてきたのか?』ではなく、『これらの出来事はどのように語られずにきたか?』です。なぜ、ある種の出来事は選択的に抑圧され、黙秘され、隠蔽されるのか。なぜ、ある出来事は記述され、ある出来事は記述されないのか。その答えを知るためには、出来事が『生成した』歴史上のその時点-出来事の零度ーにまで遡って考察しなければなりま
せん。考察しつつある当の主体であるフーコー自身の『いま・ここ・私』を『カッコに入れて』、歴史的事象そのものにまっすぐ向き合うという知的禁欲を自らに課さなければなりません。そのような学術的アプローチをフーコーはニーチェの『系譜学』的思考から継承したのです。」(内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書p86)
『これらの出来事はどのように語られずにきたか?』
この問いから、「出来事の零度」にまで辿って考察する内田先生の「推察」のスタイルこそ、自分の眼鏡を押しつけず、相手の眼鏡で「文脈を読み当てる」作業そのものであり、系譜学的思考そのものなのかもしれない。そして、その「読み当て」た「文脈」の確度が深いからこそ、あれだけの説得力と読者層を獲得しているのだと思う。そういう思想家内田樹氏の方法論的秘密に、フーコーという補助線を使って、少しだけ迫れたような気がした。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。