「創発的価値の生成」への賭け

「絶対的なものはある。ただし、それは複数ある。」

これは佐藤優氏の至言である。彼は「国家と神とマルクス」(角川文庫)の中で、マルクスに基づく資本主義理解と、国体の護持の為の国際外交論、そして神学者としてのキリスト教理解を融合させながら、自分自身の論を進めている。国家主義者、キリスト教主義者、マルクス主義者と、主義者を見た時、確かにこのうち二つは重なっても、3つ全部が重なる事は滅多にない。それは、対象をただ信奉する(鵜呑みにする)「主義者」とは違い、絶対的なものの内在的論理を徹底して掴もうとする努力をしているからである。そのうえで、「複数ある」と宣言する辺りが、非常に説得力がある。
さて、僕自身も、去年辺りまでなら、この佐藤氏の至言は、「そういうものなのかな」というボンヤリした理解だったのだが、今年になってそれは共感を伴いつつある。その導き手のお一人が、新刊をご恵贈下さった。非常に興味深く読み終えた終章で、次のようなフレーズに出会った。
「社会をよりまっとうな方向に動かしていくためにすべきことは、創造的な出会いを通じて、一人一人が自分自身の真の姿に恐れず向き合う勇気を持つことである。暗黙知の十全な作動が価値を生み出すのであり、そのためには創発の作動を疎外するものに勇気を持って目を向け、取り除かねばならなない。個々人のこの努力を背景として、人々は創造的な出会いを積み重ねることが可能となり、それが社会の要素たるコミュニケーションの質を高める。組織もまた同じように、自らの真の姿に直面し、それを改め、社会という生態系のなかにふさわしい地位を見出す必要がある。それは個々人の創造性の発揮を促すことではじめて可能となる。」(安冨歩『経済学の船出-創発の海へ』NTT出版、p258)
この3月、大きく自分の認識がパラダイムシフトをする過程で運命的に出会った「魂の脱植民地化」というフレーズ。この言葉を聞いたのが、阪大の深尾先生との出会いであり、深尾先生に導かれて、共同研究者の安冨先生の主催するセミナーに訪れたのが同月末。その後、安冨先生が書かれた『ハラスメントは連鎖する』『生きるための経済学』『やわらかな制御』と読み進めていった。そして、そこに書かれている世界観が、従来のPDCAサイクルに代表される操作主義的な計画制御(線形的制御)の図式の内在的論理とその限界を指摘した上で、そうではないオルタナティブな視点を、複雑系科学の知を補助線としながら展開しておられることに興奮せざるをえなかった。
率直に申し上げて、僕自身、哲学や思想に関しての理論的な学びは、浅い。それよりも、求められるままに、現任者研修等を通じて福祉現場で働く人の変容や成長の支援に携わったり、あるいは自治体の障害者福祉政策の変容のお手伝いを、この5,6年、続けていた。だが、無鉄砲では臨めないので、折に触れ、お手本を求めて経営学・社会学・社会福祉学・臨床心理学等の理論書・啓蒙書・教科書を独学・後付的に読み進めていったのだが、それらの本の中で書かれている「科学的知識」と、現場で求められている智慧の解離の溝は深かった。本を読んでも読んでも埋まらないどころか拡がる解離を前に、ある時から少しずつではあるが自分の頭で考え始めた。そして、今年、自分事として取り組み初めている事が、安冨先生が言うように、「創造的な出会いを通じて、一人一人が自分自身の真の姿に恐れず向き合う勇気を持つこと」なのかもしれない。
暗黙知や創発、という言葉は、デカルト的心身二元論の世界では扱いきれない領域である。それであるが故に、組織的に科学の世界からはネグレクトされてきた。『デカルトからベイドソンへ』を著したバーマンはそれを、世界の脱魔術化と呼んだが、ベイドソン的世界観や非線形の科学が焦点化しつつあるのは、脱魔術化された計画制御でははみ出してしまう、しかし現実社会ではネグレクトすることの出来ない叡智。バーマンはその世界を「再魔術化」と呼んだが、魔術という言葉でひとくくりにすると誤解が大きい。むしろ、心身二元論を越えた、でも以前の神秘主義や錬金術とは違う、魂と科学の有機的融合、とでも言えようか。こう書くと、ニューエイジ系や新興宗教系と誤解・勘違いされそうなのだが、大きく違う。古来引き継がれて来た自然科学・社会科学・人文科学の体系的叡智を批判的に継承した上で、脱魔術化以後にネグレクトされた魂の問題ときちんと引きつけようとしているのが、安冨先生の一連の仕事なのである(と僕は勝手に理解している)。まさに、「絶対的なものはある。ただし、それは複数ある」とうい視点なのだ。
「もし、飢餓もなく、道具もいつも安く手に入り、情報も氾濫しているとしたらどうであろうか。当然のことであるがこの場合には、商品をいくら供給しても創発は起きない。商品の消費が価値を生まなくなっているのである。欠乏しているのは、商品ではない。商品も情報も過剰な時代に不足しているのは、人々の創発への構えのほうなのである。それを開くことが、価値を生み出すために不可欠である。」(同上、p166)
「今の学生は受け身的」「自発性が足りない」といった言説はよく聞かれる。たが、それは属人的要素の問題ではない。安冨先生が書くように、商品も情報も道具も過剰であれば、「創発への構え」がふさがれているのである。これは、「学びへの構え」と言い換えてもよいだろう。その構えを「開くことが、価値を生み出すために不可欠」という指摘も、深く納得出来る。潜在能力を活かす出会いがなく、学びに対して斜に構えている学生に、自分で探し求める面白さが伝わった時の顔つきの変容ぶり。あるいは、当事者や支援者ときちんと向き合い、試行錯誤しながら新しいシステムを構築する中で福祉政策に携わる面白みに気づいた自治体職員の輝いた表情。そういうダイナミックな気づきや変容を間近で見る中で、逆に現在の教育システムや官僚制に内在する「創発の構え」が塞がれた現実がよく見えてくる。そして、僕の仕事も「構えを開き、価値を生み出す」支援だったのかもしれない、と思い始めている。
そして、「構えを開き、価値を生み出す」のは、何も他人に向けて、だけではない。
「ホイヘンスの共感実験系が、二つの柱時計と接続部分とから構成される一つのシステムであったように、人間の身体も多くの部分が相互に接続されることで構成されている。その全体が、ある一定の人間の身体たるにふさわしいratioを共にしている限りにおいて、身体自身の本質に属することになる。」(同上、p246)
「同期」現象を発見した科学者のホイヘンスは、二つの振動数の異なる柱時計を同じ部屋に置いておくと、両者が自然と同じ振幅数になることを発見した。この共感実験は、二脚の椅子を背中合わせにして、背もたれを渡すように二枚の厚板を起き、それぞれの板から柱時計をぶら下げていると、「共感」し出した、という。そこで人為的に力を加えて「共感」を崩すと、椅子がガタガタ揺れた、という。つまり、二つの振動数の異なる柱時計は、椅子と厚板と共に、一つのシステムとして構成され、「共感」し、「同期」したのであった。このホイヘンスと同時代に生き、親交もあったスピノザの「エチカ」の中に、ホイヘンスの理解を通じて初めてアクチュアルな理解が可能になる箇所がある、と安冨先生は言う。その一つが、人間の身体における同期性を導き出した上記の部分である。
これは、自己の体重変容を成し遂げた今であれば、実感を持って納得できる。これまで、いくら脳みそで「ダイエットしよう」と思っても、三食きちんと食べなければ、という「食毒」状態の時代には、その身体に深く埋め込まれた「食毒」のratioに支配され、決して大規模な体重減少はままならなかった。だが「三食教」こそが呪縛である、と気づいてみると、物事は大きく展開する。「食べなければ」という型にはまった精神から自由になることは、そう簡単ではなかった。だが、「炭水化物の摂取量を減らす」「前の晩に食べ過ぎたら、翌朝食べない・減らす」という単純な原則を実践し続ける中で、身体のratioのリズムが変容し、体重はググッと減少し、1月の80.8キロから、今朝は69.8キロへ。そして、この実際の体重の変容に、精神も魂も大きく衝撃を受け、体重変容後のratioに心も同期しつつある。それが、自分自身のここ最近の変化、と思うと、安冨先生の「エチカ」の解釈も、深く頷ける。
当初はご恵贈頂いた本の書評を書こうかと夢想したのだが、今の僕にはその全体像を描ききる力はない。よって、その断片から受け取った、私自身の「同期」部分の一部を書いただけで、これ程長い文章になってしまった。最後に、この本の中で一番気に入っているフレーズ(の一つ)を引用しておきたい。
「ある仕事が創発的価値を生成するなら、その仕事は有効である。」(p105)
僕は今、幸運な事に今の仕事の中で、「創発的価値の生成」に賭け続けていられる。そのことへの感謝と、いくつになっても、どの仕事であっても、この「創発的価値の生成」こそ、最優先に仕事をしていたい、と強く願っている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。