ビオフィリアと「ネジ外し」

 

もっと陽射しと眺めの良い場所に住みたい。そう思う。

最近、朝の目覚めがすこぶる良いのは、春の陽射しが良くなってきたから、だ。我が家のベッドルームは東側にあるのだが、遮光カーテンの隙間から気持ちの良い朝日が差し込むと、朝から得をした気分になる。一方、既に今は花曇りなのだが、ただでさえ気分が落ちがちになるのに、加えてこの書斎はよその家から丸見えなので、レースのカーテンをしている。すると、部屋の照度が下がって、益々気分が落ちていく。そんな天候に左右されるなんて、と思うかも知れないが、さにあらず。以前住んでいたスウェーデンでは、日照時間がガクンと減る頃を指して、「魔の11月」と言われていた。その時期に、自殺する人が一番多い、というのも頷ける。沖縄や台湾あたりに行きたい、という気持ちが、またムクムク芽生えてくる。

さて、そんなモノローグで書き始めた今日のブログも、やはり長くなりそうな予感。(というか、書き終えてみて、いつもより長くなり、かつウネウネした論考になっています。すいません)

マイブームの「魂の脱植民地化」論の続き。昨日の入学式の後、家でのんびりしながら安冨先生の『生きるための経済学』(NHKブックス)を読了。経済学というより、人間学として読んでいて、大変刺激的な一冊だった。そのエッセンスは、例えばこのあたりに現れている。

「本書が目指すのは、『イチバ』についての『市場経済学』である。それは、抽象的な需要曲線と供給曲線とが交わったり、抽象的な経済人が最適化したり、抽象的な競売人が価格決定したりする世界についての議論ではない。具体的な生身の人間が、コミュニケーションをくり広げる中で、現実に物理的な物質やエネルギーの出入りをひき起こす場面についての考察である。こういったコミュニケーションのなかで、処理不可能なはずの膨大な計算がやすやすと実現されるという奇跡の展開する現実の市場(イチバ)についての考察である。」(同上、p18)

この抽象的な「シジョウ」に対して、具体的な「イチバ」を目指す経済学、というスタンスが、なぜ自分にしっくりくるのだろう。そう考えていて、気づいた。「シジョウ」を「福祉理論」、「イチバ」を「福祉現場」とするならば、それはそっくり僕のフィールドにも当てはまる話だからである。

抽象的な「コミュニティ」や「地域福祉計画」の議論。それが如何に抽象的な世界での一貫性を持っていても、「福祉現場」のリアリティと解離している限り、現場からは冷ややかに見られる。だが一方、準市場なり要介護認定なり、そういう抽象的な世界の「合理的選択」理論が「福祉現場」に持ち込まれ、「福祉現場」が多いに掻き回されている現実が一方である。その事を考え直す為に、線形的な計画制御的発想を一旦横に置いておいて、その「現実の市場(イチバ)」の中でどのようなコミュニケーションが行われ、それがどういう現実を構成しているのか、どのような理論のメガネで掻き回されているのか、その現実を変える為にはどのようなコミュニケーションを考える必要があるのか、を見つめなおすのが、必要とされている。その際、「準市場」や「客観的な尺度」が「一つの幻想」であり、それ以外のやり方で考察も可能だ、というスタンスを取るか、幻想を絶対化(デファクトスタンダード化)するか、で、見える範囲が異なる。その事を、同書から教えてもらったような気がする。

ちなみに、同書はこれまでの「シジョウ」経済学を欺瞞に基づく「ネクロフィリア・エコノミックス」(死せる経済学)とした上で、そこに特徴的な思考連鎖を次のように整理する。

「自己嫌悪自己欺瞞虚栄利己心選択の自由最適化」(同上、p232

これは「自分自身の感覚」という「世界を生きるための羅針盤」を否定して、その代わりに外部からの価値観や評価を内面化した結果生じるサイクルである、とする。そして、そのサイクルはプロテスタンティズムの神学と驚くほど親和的、整合的である、とする。確かにウェーバーが解き明かした「神への献身の証明としての貯蓄」を振り返らずとも、身近にもこのような「自己嫌悪」を無意識化する(=自己欺瞞)事を通じて、「虚栄」という名の新たな(=往々にして疲れる)目標を見出し、その為に「利己心」を発揮して、自分は何でも選べるんだという「選択の自由」の牢獄の中で訳が分からなくなり、結局はテレビなり上司なりの言いなりの形での「最適化」に陥っている人、は存在する。安冨氏が依拠しているフロムの『自由からの逃走』も、「賢明なるドイツ人」がヒトラーに陶酔していった過程を見事にこの図式で描き出している。

では、オルタナティブ、というか、それ以外の道として何がありうるのか。それを、「生を愛好する」経済学として「ビオフィリア・エコノミックス」として、安冨氏は提唱している。

「自愛自分自身であること(忠恕)安泰・喜び自律・自立積極的自由創発」(同上、p236)

ここでいう「自愛」とは、自己矛盾も含めて色んな良い点も悪い点もある自分自身のダイナミズムを他者評価の前に肯定すること、である。そうすれば、他者との関係性のダイナミズムを包括する広義の「自分自身であること」が出来る。それは落ち着きや嬉しさをもたらし、頼れる他人との関わりが持てるという意味での「自立」が出来る。その中で、こころから「自由」を楽しめ、それによって「これまでに存在しなかった機能を生命が見出す過程」(p116)としての「創発」が生じる、とする。

この二つのエコノミックスを比較している内に、僕の頭の中では、それを体現した、つまり「ネクロフィリア」から「ビオフィリア」のプロセスに飛んでいく一群の人々を想起する。それが、「福祉現場ではじける公務員」である。

一般に、公務員の世界は、ルールや規定という自分以外の価値観や評価に基づいて、適正な手続きを行う事が求められる。確かに身分は安定しているかもしれないけれど、自分自身で考えたり、裁量権を発揮する余地があまりない、考えようによっては自己阻害的な労働だ。だからこそ、身分保障をしないと「公僕」として持たないのでは、とも思える。そういうルーティーンの牢獄の中にいて、「ネクロフィリア」的に思考枠組みにすっぽり収まっている公務員が、例えば4月から福祉課に急に配属されると、大混乱する人が少なくない。福祉現場は、「シジョウ」のようなルールと規定だけではどうにもならない、「そこで生きている人がいて、実際に何とかしてくれなきゃ困る」という「イチバ」的現実なのである。その「イチバ」で「シジョウ」のルールを振りかざしても、空振りに終わる。そこで、あくまでもネクロフィリアな「シジョウ」の論理を振りかざすか、敢えて現場の「イチバ」の論理に耳を傾けるか、でその人のその後は大きく変わってくる。

現場で「イチバ」のリアリティを知ると、単に「シジョウ」のルールの適正執行だけでは物事は何ともならない、という壁がある。その際、「壁」をルールだから仕方ない、と他責的に受け止めると、それは目の前の人間よりも制度を、もっと言えば自己保身を重視する事になり、「自己欺瞞」の回路に落ち込みやすい。一方で、そのルールの問題点に気づき、面倒でもルールを変える事が出来ないか、の試行錯誤をし出した公務員の中には、今まで蓋をしていた「公僕」意識の下にある、「人のために本当に役立ちたい」という「自愛」の回路が開いてくる人がいる。そして、その「自愛」の回路が、「ルールの変更」に基づく対象者の生活の向上、という形で具体的な成果を経験すると、「自分自身であること」に「喜び」を感じ、この裁量権の発揮に自らの職責としての「自律」や「積極的な自由」を見出し、新たなコンテキスト作りという「創発」を生きがいとする。そうして、現場をワクワクと楽しんでいる公務員が出現すると、「あ、あの人もネジが外れたな」と、福祉現場では大歓迎され、役所内では白眼視される。

僕自身は、以前このような「カリスマ公務員」の変容を、それはそれで大切なことだと思いながら、その一方で、「その人がいなくなればオシマイのシステム」の脆弱性を感じていた。そして、人で担保されるのではなく、制度として担保されるものにしなければならない、という「システム信奉者」に傾きがちであった。しかし、前回ご紹介した安冨氏の別の本の議論と重ね合わせる中で、それは違うのではないか、と考え始めている。

「理念を共有する限られた人物とそのネットワークに集中的に接続し、資源を投入することで、コアとなるコミュニケーションの形態を創り出すことが第一段階の目標となる。ここに人的信頼関係を創り出し、理念を共有し、またそれを発展させ、実践する人々のネットワークを構築せねばならない。ここには社会における固有名あるいは人格をいかにとらえるかという問題が深くかかわっている。あえていうなら、活動の目標のひとつは「特定の人格のエンパワーメント」でなければならない。(略)ここに形成されたコミュニケーションの活性を維持し続け、それによって理念の共有範囲を拡大するとともに、その流れの中で理念そのものを成長させる。この動きを通じてのみ社会に働きかけることが出来る。」(安冨歩『複雑さを生きる-やわらかな制御』岩波書店p131)

以前の「システム信奉」の先には、PDCA的な計画制御への信頼、がある。だが、市町村に設置が定められている障害福祉計画の現実はどうだったろう? ほとんどコンサルティング会社に丸投げする自治体が多い現実は、計画制御の成功と言えるだろうか? 地域自立支援協議会の、市町村での馴染みのなさや、多くの自治体での受け入れがたさ、は、このような計画制御の範疇に収まらない「合意形成」作りの枠組みへの不安、ではないだろうか? 当事者と行政が同じテーブルについて議論するなんて出来るはずがない、という決めつけに基づく「自己欺瞞」。それを暗黙の前提としているならば、「創発」は生まれない。

いや、見方を変えると、そういう「自己欺瞞」サイクルに安住している人にとって、どこに行くか分からない動的な「創発」ほど、アンコントローラブルで危険なものはない。それよりも、予測と制御可能な「最適化」を生み出すネクロフィリアなサイクルの方が、死んでいてもわかりやすい静的なものであるがゆえに、ルールと秩序の中で把握しきれるし、安心だ。・・・こんな「死んだサイクル」が「システム信奉」の中に内包されている、と、ようやく今になって気づいた。

これを打ち破るのが、ビオフィリア的な『創発的コミュニケーション』である。本当に困っている人がいる、という生身の「イチバ」的現実。それを前に、「シジョウ」的なペーパーワークの範囲では、「どないしたらいいんやろう」と頭を抱える。しかし、だからこそ、ルールの範囲を超え、相手との「コアとなるコミュニケーションの形態を創り出す」中で、「イチバ」における「人的信頼関係」が生まれていく。それが、これまでネクロフィリア的な仕事をしていた人にとって、「特定の人格のエンパワーメント」に繋がり、そのエンパワーメントされた結果として、「理念の共有範囲を拡大」が、結果的に新たな制度創出などの「社会に働きかける」結果をもたらす

障害者福祉や高齢者福祉に関わって「ネジが外れた」という公務員を何人か知っているが、それは文字通り、対象者との生身の接触を通じて、「イチバ」的な抽象性を外し、自らの「自己欺瞞」的な労働のあり方を外す、二重の意味での阻害からの解放、となっているのかもしれない。そして、僕自身は、公務員への研修で、また公務員志望の学生に向けて、「ネジ外し」の仕事をしているんだから、何ともオモロイけど、危険な商売、なのかもしれない。もっともそれ以前に、僕自身の「ネジ」が最近だいぶ外れてきているのかもしれないが

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。