「ヴォイス」への道程

 

ヴォイスについて、気になっている。たまたま同時期に読んでいた二冊の本にそれが指摘されていたからであり、また自分の今の主題でもあるからだ。

「ヴォイスとは、文体やテーマではなく、それを凌駕する自分では選択できない、宿命的にとらわれてしまっているもののことです。歌手で言えば声質ですよね。アレンジが変わっても、メロディーが変わっても、歌詞が変わっても変わらない声質みたいなものがやっぱりある。表現する人には、そういう指紋のようなものがあると思うんです。」(川上未映子『六つの星星』文藝春秋 p92

彼女の一冊目のエッセイ(『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』)を読んで、随分切れる同年代だなぁ、と興味を持っていたが、まだ大人気小説『ヘヴン』は手に取れていない。小説は苦手、というより、読み出したらなりふり構わず止まらなくなるので、自省している禁欲的な自分がいる、と改めて思う。受験生時代の貧しい心性を未だに身体化しているようで、少し悲しい。『1Q84』だって、Book3がもうじき出るのに、まだ読んでいない。今週こそ読んでみよう。ワクワク。

で、もとに戻ると「声質」という「宿命」について、それを「指紋」と表現しているのが面白い。確かに他の誰でもない、その人固有の何か。メロディーやアレンジ、歌詞がどうであれ、ちょっと聴いただけで「あ、あの人だ」とわかる「声質」。高校生から予備校生時代にかけて、中島みゆきにディープにはまっていた頃、コアなファンの友人にカセットテープ!にダビングしてもらい、その当時世に出ていた中島みゆきの楽曲の殆どを聞き込んでいた。その中で感じるのは、確かに歌い方は色々変えても、「かもめはかもめ」「中島みゆきは中島みゆき」なのである。ちなみに「かもめはかもめ」の歌も、研ナオコに楽曲提供しているが、もとは中島みゆきの歌。工藤静香に提供した「慟哭」も含めて、中島みゆきが歌うと、全部が中島みゆきワールドに当然なってしまう。そういう自家薬籠中能力、のようなものがすごく高い歌い手である。

で、今まではそれを聞き手として勝手に消費し、似非批評している立場だったので、気楽だった。だが、文章を書く、表現する側になりつつある自分としては、このヴォイスの問題は、他人事として批判ばかりしていられない。自分の喉元に突き刺さるからである。先の村上春樹氏の話に触れながら、ヴォイスについて書いている本をもう一冊、最近読んだ。

「村上春樹さんも書いていたけれど、作家の条件というのは、自分のヴォイスが見つかるかどうかにかかっている。自分のヴォイスを探しあてたら、あとは無限に書ける。ヴォイスというのは、なんとも他に言いようがないんですけども、語法、口調、ピッチ、語彙、語感などが全部含まれていると思うんです。そのヴォイスを見出すと、言葉が流れるように出てくる。ヴォイスが見つからないと、何を語っても、どこかでつっかえてしまう。あるいは、出来合いのストックフレーズを繰り返す以上のことができない。ヴォイスで語ると、たとえばほとんどがストックフレーズでできている文章を書いても、そこにまったく違う、何か活き活きとしたものが感じられる。」(内田樹・釈徹宗『現代霊性論』講談社p272

最近大流行の哲学者の内田さんと僧侶の釈さんの対談集。僕は、内田樹さんの本は出たらすぐに買う、割とコアと自認するファンなので、今回も楽しみに読んでいた。で、彼は別の作品やブログのエッセイでも何度かこのヴォイスの問題を取り上げているのだけれど、改めて川上未映子さんの語りと重ねてみると面白い。誰しも「指紋」を持っているが、その「指紋」である「ヴォイス」が「探しあて」られるかどうか、「みつかるかどうか」が「作家の条件」というのは、極めて示唆的だ。ちなみに余談になるが、内田樹という恐ろしくプロダクティブな作家がなぜあれほど本を短期間で出しているのか、の理由に、内田氏の独特の『ヴォイス』がある、と僕は深く感じる。

僕は、ある時期まで、何も考えることなく、あるヴォイスの片鱗のようなものを持っていた。それをミニコミ誌に書かせて頂いていたりして、少しずつ育んでいた。だが、ちょうど大学院生のある時期に、様々なトラブルを引き起こし、巻き込まれ、一旦ヴォイスも含めた自分自身のコアな信頼の部分が損なわれる経験をする。そのころから、生のままのヴォイスを出してはいけないんだ、と禁欲的になり、また運悪くちょうどその後に博論を各時期と重なった事もあり、「アカデミックでなければならない」と縛りをきつくし、ヴォイスを封印した。査読論文に通らないのは文体より論証力や編集力、論理性の欠如、なのだけれど、それを文体ゆえと思って、変なゴリゴリの文体に変えようとする自分が居た。

そして、大学に就職した6年前から、このブログを開設する。当時はおずおずと、であったが、ちょっとずつ文章を頼まれもしないのに書き出したのは、自己顕示欲、というより、後付的解釈で振り返るなら、自分のヴォイスを取り戻す試みだったような気がする。ネット上の空間で、多少は他人に見られている、と意識しながら、しかし自分の内面と向き合いながら、色んな本を引用しながら、自分のヴォイスを「探しあて」ようとする旅路。小さい頃からニュース中毒だった故に、自分の頭の中には「ストックフレーズ」にまみれている。その煤を払い、あるいは「ストックフレーズ」を自分なりにパラフレーズするためにも、文章修行をする場。それが、このブログだったのだと思う。

そして最近、少なくともブログに関しては、「言葉が流れるように出てくる」「ヴォイスを見出」したような気がする。そして、今自分の関心は、それを論文や他の原稿でも、ちゃんと活かせるか、という課題である。ちょうど昨日がとある学会発表の予定稿の〆切日だった。一旦書き上げた内容が、まだ「アカデミックでなければ」という囚われから抜け出せず、本当に僕でしか伝えられない何か、が書かれていない、と引っかかっていた。それは何だろう、と考えあぐねている中で、「ヴォイス」を思い出したのである。そう、僕にしか語れない「ヴォイス」であり「指紋」。先行研究を知ったかぶりして引用するより、きちんと「ヴォイス」に向き合いながら、必要な研究を参照しながら、something newを紡ぎ出していく営み。それなら、自己欺瞞に陥らずに出来るし、自分なりに楽しく取り組めそうだ。そんな「ヴォイス」を、ようやく「見つける」ことが出来そうな、そんな分水嶺に差し掛かっている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。