想定内を超える瞬間

いつもは「聞き手」なので、「聞かれること」はあまり得意ではない。

昨日はとあるタウン誌のインタビューを受けた。こちらも色々お話を伺いたかった、あるNPO法人の理事長さんとの対談である。
相手に聞かれたことを丁寧に答える、というのが、インタビューの基本なのだろう。でも、僕の場合、ついつい勝手にしゃべってしまう。それは、自分が聞き手として、「自分が聞きたいこと」「相手に言ってほしいこと」を自分の枠組みの範囲内で聞き続けてきた、という自らの愚かさを知っているから、かもしれない。だから、意識しなくても、普段より緊張して、その結果、普段より遙かに沢山しゃべる。そして、通常のインタビュアーなら、その普段より沢山しゃべる内容に圧倒され、結局こちらの持ちネタというか、もともと持っていたストーリーの枠内に収まる。すると、僕自身がみれば、想定内のアウトプットがもたらされる、ということが、少なくなかった。
饒舌なのに想定内、これほど自分にとって、つまんないものはない。
だが、昨日の聞き手のMさんは、「聞き手の私」をしっかりもち、がっつりぶつかってくださる。しかも、僕のようにしばしば「なんでですか?」と問い返すことなく、基本は笑顔で頷く。しかし、肝心なところで、大切な捉え直しや合いの手を入れてくださる。そこで、饒舌に想定内のストーリーになりかけていたのが、ふと、立ち止まって、考えて、想定外のところに踏み込み始める。
「聞き手」を続けていて、面白い、と感じる瞬間は、「語り手」が自らの想定内を超える瞬間。聞き手とのやりとり(本当の意味でのdia-logue)という相互作用を続ける中で、語り手がふと、量子力学的跳躍を果たす瞬間。そこから、語り手自身が思いもしなかったことを、蜘蛛の糸でも掴むかのように、語り出す瞬間。そこに出会えると、対話の質が随分深まり、聞き手の方もいつしかその相互作用の中で、聴ける内容も深まっていく。
昨日のインタビューでは、聞き手の側のハンドリングがうまかったので、また語り手の私と話が合う部分も少なくなかったので、その相互作用の中から、普段の僕が記憶の納屋か倉庫にしまい込んでいた、いくつかの懐かしい在庫を取り出していただく事ができた。僕自身も久しぶりに見る、過去の記憶や経験の断片。しばらくの間考えてもいなかったことなので、埃を払いながら、話をしながら、その懐かしい在庫の現代的意味を問い直そうとする。あるいは、今考えつつある断片との融合の中で、まだ見ぬ何か、を紡ぎ出そうとする。
聞き手がうまいと、そういう導きに誘われ、気づけば、想定外の場所に、連れて行って頂ける。
その瞬間、饒舌はひとたび止まり、うーん、と考え込む瞬間にたどり着く。攻撃的!?おしゃべりな僕にはあまりない、エアポケットのような瞬間。しかし、その瞬間と出会えるから、まだ見ぬ何か、語ってこなかった、今から語られようとする何か、が未然形として、前のめりに示されていくのだ。これこそ、自分の殻を破る瞬間だし、対話的環境がエキサイトする瞬間である。
そういう、至福なインタビューだったので、2時間しゃべりっぱなしで、ノドがからからになってしまった。
僕だったらあんなにしゃべられたら2頁の記事にまとめられないが、そこは優秀なる記者さんが横でじっと聞き耳を立てておられたので、取材チームのお二人は実に名コンビ。今から、どんな記事になるか、楽しみである。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。