聴かれること、の幸せ

 

ある日の夜中のこと。仕事でクタクタになって、やっとの思いで家に帰って来た日のことである。パートナーがとある研修で受けてきた、という一枚の図を見せてくれた。「ライフライン」と示されているその図には、何も書かれていない縦軸と横軸、そして、横軸の右端に近い部分に印、が示されているだけだ。その図を元に、自分の人生を描いてご覧なさい、というものである。妻の書いた内容を眺めながら、大学時代のことを思い出していた。

その昔、確か大学1,2年生の頃、僕が在籍していた人間科学部は、社会学、教育学、心理学系統から成り立つ学際的な学部の走り、と言われた学部だったが、その基礎教養科目として、各系統のオムニバス講義のようなものがあった。そのオムニバス講義で、臨床心理学の授業だったとき、担当の先生が配布した紙には、おとぎ話か何かの場面が10個描かれていた。その絵と、A3のシートを配られた後、先生からは「一つの絵を選んで、時間内(30分くらい?)で自分なりにストーリーを書いてみなさい」と指示される。タイトルとペンネームをつけたそのストーリーは、列ごとに回収され、別の列の誰か、と交換して配られる。配られた他人のストーリーに対して、自分なりに解釈を裏側に書き込んで、また回収。それを二セットやって、書いた作者に戻される、というものであった。

もう15年も前の事なのに、その内容は結構おぼえていたりする。神父の前で男女が結婚式を挙げている場面を選んで、僕が書いたのは、三者三様の複雑な内面模様だった。やっと結婚出来るわ、と、安堵する美人妻。本当に俺でいいのか、と悩むぶさいく男。そんな二人を、「さて、これからどうなるのやら」と見守る、なぜかイタリアあたりから逃亡したやくざな神父。その三者の心理劇を即興で書いていた。

そのストーリー自体は、どこにでもありそうな、陳腐な内容だが、面白かったのが、匿名の二人の評者による読み解きであった。何を書かれたかの詳細はおぼえていないが、文体や内容を分析しながら、「異性にモテたいことに対するコンプレックスがある」「ロマンチストとリアリストがない交ぜである」「現状を冷たく分析する傾向がある」「ねちっこい性格」といった事は、案外的をついた指摘だなぁ、と納得しながら読んでいた事を思い出していた。

回り道をした。そう、ライフライン。

自分自身も、即興で縦軸に%、横軸に年齢を置き、今までの人生の浮き沈み、をグラフ化してみる。これだけでも仕事帰りで疲れた真夜中なのに、やけに熱中する。ただ、書くだけが、第一義的に大切なのではない。この書いた紙を通じて、相手から何かを引き出すこと、それを通じて対話すること、が、大切なのである。

その研修を受けたパートナーによると、答えたくない質問には答えなくてもいいけれど、「なぜ」と、単純に聴くことが大切だそうな。解釈は、質問者ではなく、書いた本人に任せるとよい。実際、僕自身もその後聴かれてみて、ぽろぽろと、言葉が出てくる。特に、しまい込んでいた何かが。「これってどういうことなん?」と対話する相手に促されて、改めて自分自身をリフレクションする。一人で振り返っているとタコツボに入りそうだが、他人に説明しようとすると、記憶を辿ったり、何らかの合理的解釈をしようと試みる。その中で、思ってもみなかったことが、次から次へとわき出して、口に出されていく。きっと、こういった教育分析的な何かを受けてみたかったんだろうなぁ、と思いながら、話しても話しても、「もうちょっとだけいい?」と、言いたいことが出てくる。いつも勝手な事を言い続けているようでいて、意外と蓋をしていたことがあるのですね。そういえば、これって「じっくり聴かれる快感」だよなぁ、とも思う。

僕は、ジャーナリストに弟子入りした事もあり、質的調査にずっと関わって来たこともあり、仕事柄、インタビュー的なことは、良くやる。上手なインタビュアーかどうかはアヤシイが、博論だって117人への聞き取り調査をまとめたものだし、来月発売のある業界誌では、新春対談の司会役もさせてもらった。インタビュー相手の懐にどこまで入れるか、は別として、構造化面接ではなく、スノーボール型、というか、話を聴きながら、ずんずんその奥まで探っていこう、というタイプのインタビューは割と好きである。で、結果として、ある施設での職員悉皆調査をしていた時、「何だかカウンセリングを受けているみたい」と言われたことも、何度かあった。おそらく、上記で書いたような、教育分析的なメンターの役割を、その相手に果たすことが出来たからだろう、と思う。

でも、僕自身は、なかなか「聴かれる」ことがない。おしゃべりだから、もちろんあちこちでぺらぺら喋っている。だが、それはこちらから話題をふる事が多く、質問に答える、とか、質問から引き出される、という事ではない。悪い癖で、「一聴かれたら十答える」性格なので、3つくらいしか聴かれていないのに、気づいたら30分過ぎている。すると、だいたいそれくらいで時間切れとなり、向こうは「沢山聴いた」と思っているのだろうが、僕自身は「あんまり聴いてもらっていない」という不完全燃焼状態で残るのだ。こう書いていて、結構鬱陶しい奴だ、と改めて思わなくはないが

で、先述のライフラインの分析では、実に久しぶりに、というか、初めてくらい、本当に「聴いて」もらった。人は「聴かれる」事を求めているのだな、と改めて思った。結局、僕は2時間ほど、ずっと「聴いて」もらっていた。そして、それだけ「聴かれる」中で、自分自身の解毒が出来、蓋をしてていた(心理学的に言えば抑圧していた、とでもいえるのかもしれないが)何かを空けることが出来た。

もちろん、それだけで、翌日から全く生活が変わった訳ではない。相変わらず、忙しい日々で、腹が立つことも少なくない。でも、「聴かれる」ことの力、を実感すると、ちょびっとだけ、人生の楽しさが増えたような気がする。「まだ喋ることがあるの?」、と尋ねられることもあるけれど、そりゃもう、ナンボでも出てくるものですよ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。