昨日書きたかった(けど書ききれなかった)こと

 

昨日ブログを書いた後、風呂に入っていて、物足りなさを感じた。ブログの文章に関してである。小説家、奥田英郎氏が書いた伊良部シリーズの書評らしきものを書いていて、何か物足りない、と感じていた。それは何か、と考えていて、ふとこないだ読んだべてるの家の向谷地さんの本を思い出す。それで、はたと気づいた。そうか、あれと一緒ではないか、と。

ただでさえ出費の多い年末、ディーラーに定期点検に入れると、バッテリーと暖房器具一式の交換が必要、と言われる。7万5000円の出費は痛い、と思いつつ、エンジンがかからなかったり、暖房がコントロール出来ないのもたまらないので、泣く泣くディーラーで交換してもらっていた時のこと。1時間はかかる、と言われて、研究室の書棚から持参したのは、『ゆるゆるスローなべてるの家ぬけます、おります、なまけます』(向谷地生良、辻信一著、大月書店)だった。この本は、ライフスタイルのスロー化を提唱する辻さんと、精神障害者の回復拠点を北海道の僻地、浦河で作り上げてきた向谷地さんの対談本であり、主に辻さんが向谷地さんの魅力を引き出すインタビュー、という趣。向谷地さんの本は殆ど読んできたけれど、対談集が時として面白いのは、著者が自分で書かない(その意識がない、そこに視点が向かない)ことが、引き出されている場合である。今回、その対談集でも、向谷地さんの生い立ちや学生時代までの事が引き出されていて、非常に面白かった。

今、その本は研究室においてきてしまったので、手元にないのだが、その本を読んでいて、全体的に感じたことがある。それは、向谷地さん自身が、自分が精神障害者を治したいとか、何とかするために身を犠牲にするんだ、とか、そういう献身性や正義感とは違う動機でこの仕事をし続けている、ということである。むしろ、精神障害を持つ当事者の人々が何を考え、どう苦しんでいるのか、に寄り添いたい、という一心で、接している。その中で、本人から苦労を奪ってはいけない、と考え、その苦労をうまく背負い直せるような支援をしている、という事が、この本を読んでいても、しみじみ伝わってきた。そう、だいぶ回り道になったが、先に挙げた奥田氏の小説を読んでいて、何となくそのスタンスとの相似性を感じたのである。

以下では少し、奥田氏の短編連作集の構造を、ちょっとだけ分析してみたい。(読んでない方は、以下はネタバレ的な部分もあるので、お気をつけください)

小説の中で描かれるドクター伊良部は、世俗の塊のようなキャラクター(二代目のボン、親は医師会の有力者、ポルシェに乗って、似合わないブランドもので身を固めて)である。しかし、治療に訪れた患者に、趣味で注射を打つけれど、それ以上の治療らしい治療をしようとしない。カウンセリングを求める患者に対しても「聴いても無駄でしょ」など、一見すると、酷い対応をする。しかし、このドクターは、あろうことか、興味本位で患者の仕事の現場についていく。野球選手だったり、作家だったり、サーカスの曲芸師だったり、ルポライターだったり、独特のキャラを持つ登場人物の所属する現場に顔を出し、勝手な事をし始める。そして、ドクターが勝手なことをしでかしている間に、クライアント自身がドクターに引っ張られて、その現場での関係性を変容させたり、何らかの気づきが起こる。そしてその変容が、結果としてクライアントの問題の解決の糸口に繋がる、そんな構造がみてとれる。そして、3作続けて読んでみて、この構造には、一定の真実みがあるのではないか、と思い始めたのである。

昨日も書いたが、精神疾患は、社会の中での生きづらさが身体や精神的な失調という形で現れる部分もある病である。社会で何らかの役割を引き受ける事に疲れ果て、あるいはその役割を維持する事に自信がなくなったり疑問が生じ、抜けられない落とし穴に陥るかのように、周りとの不全感が累積していく。そのうちそれが、鬱や記憶喪失、幻聴や不安障害などの形で身体症状として表面化していく。それに対して対処療法的にその表面化した症状を薬で消す(減らす)ことは出来ても、内面にある不全感や生きづらさに目を向けることをしなければ、表面は一旦鎮火したかに見えても、再び火が燃え広がる可能性は少なくない。

べてるの家の実践の面白いところは、向谷地さんだけでなく、タッグを組む川村医師も含めて、対処療法的な多剤療法に逃げない、というところである。クライアントが病気に逃げ込まないで、苦労を引き受ける主体になれるような支援をする、そのことによって、不全感や生きづらさにこそ、うまく対処出来るようにSST(ソーシャルスキルトレーニング)などの技法を使ったり、「三度の飯とミーティング」というフレーズに代表されるような、当事者のセルフヘルプグループの力を活用する戦略をとっているのである。そして、その対処療法ではなく、問題の核心と対処するやり方への変容を支援する、という部分が、先の伊良部シリーズ構造に似ているような、そんな気がしてきたのだ。

ここで、浦河の実践と伊良部シリーズに共通するのは、クライアント自身が関係性を変容させたり、何らかの気づきが起こる主体である、この部分を奪わない、という事でもあるような気がする。専門家にお任せして、患者は「援護の客体」と矮小化されていない。あくまでも、その問題を引き受ける主体であるけれども、その問題の大きさや、関係性の悪化にくたびれ果てて、一人では解決する気力も落ちている。そんなときに、有無も言わずビタミン剤やブドウ糖という無害なものを注射する伊良部ドクターは、向精神薬で薬漬けにする一部の精神科医より、遙かにマシなのかも知れない。浦河の川村ドクターも、出来る限り薬は減らすのが原則、と言う。その上で、クライアント自身が問題と関われるよう、医師が余計な責任まで取ろうとしないのも、共通点かもしれない。川村ドクターと違い、小説の中に出てくる伊良部ドクターは、間抜けですらある。しかし、このマヌケさが、患者自身をして、医者に頼っても仕方ない、という踏ん切りになるのかもしれない。そして、この踏ん切りが、関係性を変容させる、踏ん張りの原点になっている節も見られる。

素人分析なので、当たるも八卦、の域からは、当然出ていない。だが、こういう事を色々考えさせてくれる、という意味では、非常に面白い比較が出来る奥田本と向谷地本であった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。