現場考

研究者にとっての現場とは?

出張先からの帰り、甲府まで乗せていった仲間から言われて、以来、ぼんやり考えている。
水木と長野に出張だったのだが、調査の出張(今回はその打ち合わせ)の際に楽しいのは、仲間の研究者と、夜、一杯飲みながら、色々議論が出来ること。今回も志を同じくする仲間と車中で、現場で、夜ご飯を食べながら、議論が続いていた。その際、研究者にとってどれだけ現場に通えば、「現場のことがわかっている」ということになるのか、という話題になった。そこで出てきたのが、冒頭の疑問だ。

僕の関わっている福祉の世界では、理論的な研究ももちろん大切なのだけれど、実際に何らかの支援を行っている人と、その支援を受けている人、が存在している。その支援が行われている場のことを「現場」と呼んで、「現場発の研究」「現場をないがしろにした研究」などという言葉が使われる。ただ、この際問題になるのは、ではいったいどれほど現場に関われば、「現場がわかっているか?」ということだ。

福祉の本を色々買ってみて思うのは、現場でずっと関わってこられた研究者の本は、自分が関わった現場の普遍化を目指されるのだが、それが十分に普遍化出来ていない場合もある。逆に理論派の先生の本の中には、現場で全く使い物にならない理屈ばかりこねている本もある(もちろん例外的に秀逸な論もあるが、それは「例外」の範疇に入ると思う)。理論と現場の往復の中から、「現場にも響く理屈」「理論にも響く実態」がうまく反映されているものは、なかなかない。かく言うタケバタだって、どれだけそういう論文が書けているか、と言われるとアヤシイ・・・。

また論文レベルでなくとも、「現場がわかる」とはどういうことか、にも疑問がある。例えば現場で20年働いて来られて研究者になられた方が、「私は現場でずっといたので」と仰る。だが往々にして、その1カ所の現場のことはご存じかもしれないけれど、他の現場の事をどこまでご存じで、ご自身の現場をどれだけ相対的に見ておられるのか、というと、結構独善的な方もおられる。しかし一方で、例えば研究者だけれど現場に精通している、という人でも、ざっと現場に一二日入っただけで、さもその現場を知り尽くしているような顔をしている人もいる。僕は、どちらかと言えば後者に近い。あちこち見に行くけれど、どこも1,2日のことが多く、たまに長く関わっても、所詮は毎週通っても半年だけの定点観察、という感じだと、「それで現場の何がわかるのですか?」と現場の人に言われたら、ほとほと困ってしまう。だが、では毎日現場にいる人が、その現場の事象を普遍化することが出来るか、というと、それもまた違う場合がある。

結局は普遍と具体、理論と現場、という二つのベクトルに自覚的で、現場発でも、理論発でも、逆側のことも常に視野に入れながら、考え続けることが出来るかどうか、が、現場と理論との往復にとって一番の架橋となるのだろう。実際にケアに従事している人、ケアを受けている人、とタケバタでは、現場の意味づけが違っている。とりあえず、僕にとって現場とは、福祉的課題が実際に発生している場、と考える。そして、その場でのタケバタのスタンスは、大変月並みだけれど、発生している課題は根本的にはどのようなものか、を抽出し、解決の糸口を探り、時には現場の人々に返せる何かをアウトプットしていくことだ、と今は考えている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。