流れた一日

昨日の夕方、生まれて初めて清里に出かける。あの別荘族が沢山暮らし、夏になったら都会の人々がわんさか来る、という「噂」しか聞いたことのない、清里にである。とはいっても、我が家から地道で1時間近く、八ヶ岳の山麓を登っていけば着いてしまう。馬力がでかいアクセラ号なら、ズンズン走るので、軽いドライブ気分ですぐ着いてしまった。で、お目当ては「フィールドバレー」である。http://www.moeginomura.co.jp/FB/2005/

本来なら、上のHPにあるように、夜になると相当ひんやりする清里の高原で、こぢんまりとした野外舞台のを目の前に、芝生にゴザを引いて、のんびり「白鳥の湖」を鑑賞するはず、だった。そ、それが・・・。開演1時間前の午後7時頃から、急に雨。しかも、どんどんドンドン強くなってくる。最初は「2,30分の通り雨だろう。始まってから雨が降るよりましだ」なんて悠長に言っていたのだが、雨はついに滝のように地面を叩きつけ、安物のポンチョは全く役にたたず身体がずくずくになる始末。こんな土砂降りがよりによって・・・と思っている内に、とうとう会場の放送が、「開演予定時刻を15分過ぎても雨が降り続くので、今日は残念ながら中止とさせて頂きます」と告げる。まあ、今からびしょ濡れの芝生でガクガク震えて風邪までもらって見るよりは、来年もう一度来た方がいいよなぁ、と妙に納得。全く腹が立つことなく、今年は場所も現場の雰囲気も掴めたし良い予習だった、と思いながら、帰路につく。ちなみに国道も一部水びだしの地域まであり、せっかくのアクセラ号がまた泥だらけ、となっていった。

で、帰って風邪を引かぬように熱い湯につかって、一杯やり直しながら、テレビをカチャカチャ。そう、テレビではずっと衆議院解散の一日の動きを報じていた。実は、この日のテレビ報道で報じられることはなかったが、この解散の「おかげ」で、ある法案も自動的に廃案になった。そっちの方が、僕にとっては大変大きな意味を持つ。それは、障害者自立支援法案のことだ。

昨年10月12日に国の社会保障審議会障害者部会で厚労省から提示された「改革のグランドデザイン案」。ここには障害者への原則1割の応益負担や精神障害者の通院公費医療負担制度の廃止など、所得保障が確立されていない障害者への大幅な負担増を求める内容が盛り込まれていた。65歳以上の高齢者を対象とした介護保険法との統合を視野に入れたものである。身体、知的、精神、児童と別れていた福祉法を統合し、同じサービスを同じ体系で受けられる、しかもそれが障害者の「自立を支援する」というスキームで改正しよう、という方向性は、一見聞こえがよい。

だが、この厚労省の「グランドデザイン案」で明確になったのは、厚労省の考える「自立」が「身辺自立」や「タックスペイヤーになること(by 尾辻大臣の国会答弁)」である。この概念に当てはまる「自立」が出来る障害者は、全体のごくわずかな割合でしかない。重い障害故に、一般就労は難しかったり、身辺自立は絶対的に無理な人の方が多い。そんな障害者の地域自立生活支援において大切にされてきたのは、「自己決定の自立」。つまり「3時間かけて自分で服を着替えるより、介助者に指示して3分で着替え、あとの時間を自分らしい生活に費やす自立」という考え方だ。今回の法案で示された施策の中身は、「自己決定の自立」を支えるにはあまりに貧しいメニューしかなく、多くの障害者団体が、この法案に対して異議を唱え、大きな運動もしてきた。
http://www.j-il.jp/jil.files/daikoudou/daikoudou_top.htm

一方厚生労働省は、この間、ものすごいスピードで議論を進めようとしていた。10月に案を出し、通常国会で通過させ、改革の一部はこの10月からスタートするつもりで、今年度予算にも既にその方針を盛り込んだ予算取りをしていたのだ。厚労省の言い分は、簡単に言えば、障害者関連の予算が毎年赤字であり、1割負担に応じないと財務省がこれ以上障害者の予算を確保してくれない、という一点張り。ならば、その予算の問題について財務大臣も呼んで国会で審議すればいいのだが、財務大臣も来ず、十分に審議されないまま、衆議院では与党による強行採決。

世界に目を転じれば、Nothing about us without us!(私たちぬきで私たちのことを何も決めないで!)を合い言葉に、障害者に関する法律は障害者が参画して決める方向が「グローバル・スタンダード」となりつつある。国連の場に置いても、障害者権利条約策定に向けて障害者が参画した形で、条約への議論が続けられている。日本の外務省だって、日本の障害者と大変友好的に条約作りの場で協働している。なのに、国内では、「予算がない」の一言で、法の対象となる障害者自身の声が反映されぬまま、半ば強引にものごとが決められようとしてきた。そして、参議院での強行採決も現実味を帯びていたのだが、昨日の衆議院解散で、一気にひっくり返されたのである。

とにかく、あまりにも無謀な「強行採決」的展開が回避されたので、今回の「廃案」はとりあえず素直に喜ばしい事である。とはいえ一方で、「予算がない」事実は解散して選挙しても変わらない。当然選挙後の臨時国会か、来年の通常国会には、同じ法案が再び提出されるはずである。同じ流れを繰り返さないために、障害者やその支援者達の側にはどのような戦略が求められているのだろうか・・・。

色々「流れた」一日の最後、テレビの喧噪を見ながらそんなことを考えていた。

 

分岐点

甲府の暑さでグッタリしていると、無意識下に押し込んだ「はず」の思わぬものが出てくる。今朝見た夢も、そして午後本を読んでいるときに急に思い出したエピソードも、どちらも僕にとってはすごくネガティブで、思い出したくもない類のものだった。向き合うのさえしんどくなるような、ちょっとキツイことを思い出していた。ただ、そのとき読んでいた本が、グログロとぐろを巻きそうになっていた僕の心を、現実に引き戻してくれた。

「自分の犯した間違いや欠点を認めるだけでもむずかしいのに、至らない自分に対する恥を克服してそこから学ぶのは、もっと難しい。だが、ハインツの例が物語るように、リーダーとなり、良い人生を生きるためには、それは欠かせないことなのだ。」(「ハーバードからの贈り物」ランダムハウス講談社、p115
http://www.randomhouse-kodansha.co.jp/catalog/2004_015.html

ハーバードビジネススクールでは、教授陣が学期の「最終授業」の最後の数分間に、自分の経験に基づいたアドバイスを若者に語りかける伝統がある。本書はその「逸話」を選りすぐった文字通りの「贈り物」なのだ。一昨日でかけたジムで手にしたビジネス雑誌で紹介されていて、早速本屋で買って、今日読んでいた。一つ一つが数分の話なので、読んでも短い。だが、内容の密度の濃さに唸ることの多い本だ。

引用したナンシー・F・ケーンの略歴もこの本で初めて知ったくらい、またハインツといえば食品会社大手、くらいの知識しかない、僕は経済には全くの門外漢である。でも、ナンシーが徹底的に調べた起業家の一人であるヘンリー・ハインツの話に引きつけながら学生に伝えようとしたメッセージは、僕にもビンビン伝わってきた。「自分の犯した間違いや欠点」「至らない自分に対する恥」を認めるだけでも嫌だし、ましてや直視して克服するのは、確かに本当に大変なエネルギーが伴う。だけれども、リーダーでなくとも、「良い人生を生きるためには、それは欠かせないことなのだ」と僕も心底思う。自分が放ったらかしにしておいた問題は、まわり回って必ず自分の元に返ってくる。ならば、その問題から逃げずに、どうしたら二度と同じ陥穽にはまらずに済むか、少しは至らない点を改善するために、今何から始めればいいか、を真面目に考えることは、すごく大切だと思う。当たり前のことが書かれていて、僕がここに書いている事も大変基本的なことなのだけれど、その基本を実践できるかどうか、がその人の分岐点なのだな、と感じている。

そういう意味で、僕は30という年齢で、また一つ、分岐点にさしかかっている。20代で繰り返して来た「間違いや欠点」「至らなさ」をどうクリアして、一つずつ、目指すモノに向けて実践を積み重ねていけるか。それが問われているな、と感じる週末であった。

「異国」と異邦人性問題その2

実は、と告白するのだが、車の中で、結構聞いているのが「中島みゆき」だったりする。このHPを作ってくれているmamnag氏と高校時代からの付き合いなのだが、一年後輩の彼が写真部に入ってきてすぐに、僕に勧めてくれたのがきっかけだった。以来、怪しい薬のように体中が反応してしまい、浪人時代などはウォークマンに入れて、行き帰り毎日「みゆき漬け」の日々。今でも、心身ともに疲れ果てた時などはかかせない。「えっ、あんな暗い歌を、浪人生とか疲れている時に聴いたらよけい落ち込むやろう?」 それは彼女にはまったことのない人が言うセリフ。本当に聞き込んでいると、彼女の、特に昔の時代の真っ暗路線の曲には魂がギッシリ込められていて、聞いていると、歌詞も曲調も声色も暗いのに、なぜか僕は元気が出てくるのだ。

で、以前旅行用に作ったMDLPに40曲以上ギッシリ詰め込んだ「私家版中島みゆきスペシャル」を、今日もアクセラ君で帰りしな、聞いていた。そこで、今日の一曲は「異国」

「悪口ひとつも自慢のように ふるさとの話はあたたかい
忘れたふりを装いながらも 靴をぬぐ場所があけてある ふるさと

しがみつくにも足さえみせない うらみつくにも袖さえみせない
泣かれるいわれもないと云うなら あの世も地獄もあたしには 異国だ

町はあたしを死んでも呼ばない あたしはふるさとの話に入れない
くにはどこかときかれるたびに まだありませんと うつむく

百年してもあたしは死ねない あたしを埋める場所などないから
百億粒の灰になってもあたし 帰り仕度をしつづける」
(アルバム「生きていてもいいですか」より 1980年)

いいねぇ、と思いながら、聞いていて、ふと考えていた。それは、前回のブログに書いた「異邦人性」の問題だ。「異国」の主人公は、狂おしいほど「ふるさと」に憧れている。「百億粒の灰になっても」「帰り仕度をしつづける」くらい、ふるさとが自分を受け入れてくれるのを待ち続ける。これ程までに、濃い「ふるさと」への愛憎半ばする思いの深さ。これが発売されたのは今から25年前の昭和55年。このころまでなら、「町はあたしを死んでも呼ばない」ほどの村八分や、そこから追われて(勘当されて、蒸発して・・・)都会に出てきた者の悲哀、というのに、リアリティがあったのかもしれない。だが、昔ながらのコミュニティが崩壊しつつある、といわれる2005年の今、この「あたしを埋める場所」への強い気持ちを持つ人が、どれほどいるのだろう・・・。地域福祉を考えるに当たって、この部分がよくわからいのだ。

ただ、これを大学と学生の問題に置き換えると、ちょっと様相が変わってくる。今、僕も学生と接していて、大学への帰属意識や、それに限らず自分の大学を「好き」と思う学生、「この大学に入ってよかった」と満足している学生、がどこの大学でも減ってきているのではないか、と感じている。自分自身への低い価値付けと共に、大学への愛着や所属感、も希薄な学生さんが、少なからぬ数、いるような気がするのだ。これは、大学における「異国」問題であるような気がする。

だからといって我が大学は「しがみつくにも足さえみせない うらみつくにも袖さえみせない」ような大学ではない。それとは逆で、学生サービスを真剣に考える教員がすごく多い大学だと、お世辞でなく、本当に思う。ただ、「しがみつく」「うらみつく」ほどのエネルギーを大学に傾ける前に、簡単に諦めてしまう学生さんが、どうも少しずつ増えているのではないだろうか? はじめの一歩、を踏み出す事さえ躊躇して、「どうせ俺・私はアホやから」「出来ない」と決めつけている、そういう学生さんを、以前教えていた大阪の大学でも、この大学でも見ている。これはものすごく勿体ないことだ。なぜって。スルメでもしつこく書いてきたのだが、学生さんが低い自己規定する事によって、自己暗示と自己への束縛を強めているような気がするのだ。つまり、はじめの一歩を踏み出さないばっかりに、自分をどんどん低い状態におとしめてしまい、それが在学中に助長されていくような気がするのだ。

そこで、私たち教員の側の、支援の力量が今、問われていると思う。大学でstrangerの気分でいる学生、ハスに構えいる学生、「しがみつく」「うらみつく」ほどのエネルギーを喪失している学生、彼ら彼女らが活き活き出来るように、学生をエンパワメントしていく必要があると思う。その際大切なのは、彼らが単なるサービス受益者でありお客様である段階ではダメで、大学における自身の役割と尊厳がしっかりあって、謙虚な自信を持ち、主体的に「関わり」を求めてくる、そんな学生へと、どう変身を手助け出来るか、だ。「この大学はおもろい」「ここにおったら自分のためになる」そんなインセンティブの提供の中で、学生の持つ異邦人性が解体され、大学生としての自覚と矜持が生まれると思う。

「忘れたふりを装いながらも 靴をぬぐ場所があけてある ふるさと」

こんな大学を今も、そしてこれからも作り上げていくために必要なことは何か。これも夏休みの大いなる宿題の一つだ。

異邦人性

今日はスウェーデンからの来客がこられる。

お昼に「小作」にて甲府名物「カボチャほうとう」をお勧めする。クーラーが効いた部屋だけれど、フーフー言いながら、みんなで食べながら議論。スウェーデン社会における移民問題についてやりとりをする。移民への適応政策や手厚い福祉施策を講じても、言語的・文化的ハンディを背負った大人達は壁を越えて社会に適応できず、結局自文化の殻に閉じこもってしまう。そして、その影響が、異文化にも適応しようとしている子供への抑制にもつながる・・・そういう話を伺っていた。スウェーデンに限らず、ロンドンのテロでも英国籍の第二世代・第三世代の問題が指摘されていたが、同じ様な問題がスウェーデンでも起きているようだ。

実は、この問題は全く他人事ではない。例えば僕はよく激安商品を求めて業務用スーパーに出かけるのだが、甲府でもそういうスーパーに行くと、たくさんの外国人を見かける。精密機器などの工場労働に従事している日系人や、歓楽街で働くアジア系の人々など、多くの外国人が甲府でも働いて、生活している。そんな外国から甲府に移り住んだ人々の子供達への教育支援の問題や、あるいはその親世代で日本語がままならない人々の生活上の支援など、多くの地方都市で外国人支援の問題が顕在化しつつある。そういえば、外国籍の子供達を支援している現場に阪大時代の仲間が何人か携わっており、支援の内容も重要性も年々拡大し続けている、という話を伺ったことを思い出す。

もう一つ、自分事に感じたのは、スウェーデンで半年暮らしていた時の経験だ。あのときは僕はまさに「外国人」だったのだが、母集団以外の社会への溶け込みにくさ、を感じた。色々な段階があるのだが、まず言葉の壁。僕たちはルーズで結局英語で通してしまったため、言葉が出来ないことによって本当に閉ざされた感覚があった。次に、「ためらい」の壁。それは言葉が出来ない事とリンクしているのだが、自分たちの価値観や考え方と違う集団に合わせたり、その一員として振る舞うことに、何となく躊躇してしまうのだ。「ここではどうせ外国人だし」という異邦人性が、別の社会では常時くっついている。すると、コミュニティへの愛着や帰属意識を持つことは出来ない。

もっとも、この異邦人性、つまりコミュニティへの愛着や帰属意識のなさは、単にスウェーデンという外国だから、という訳ではない。日本にいても、実は生まれ育った京都への帰属意識(京都出身だから)というのはあっても、それ以後住んだ茨木や西宮でもコミュニティへの愛着や帰属意識は、残念ながら持てなかった。甲府でもまだ持てずにいる。もちろんそれは、子供がまだいなかったり、持ち家ではなく賃貸だったり、引っ越して半年もたっていなかったり、という様々な事情が重なっているとは思う。ただ、自分自身が地域で「根無し草」的状態であるのに、よく地域福祉を教える側に立っているよなぁ、と実の所、思っていたりする。甲府では自治会活動が今でも立派に存在しているのだが、僕自身は、自治会活動に参加しなくてもよい、と言われて今のマンションを選んだ。つまり、住んでいる町への「所属感」を持とうとしなかったのだ。この所属感のなさ、は、その町への、そしてその社会への愛着の低さ、にもつながるんだろうなぁ、というのは容易に想像できる事だ。すると、甲府やスウェーデンでのstranger達がどんな思いを馳せているのだろうか、というのは、決して他人事ではなく想像出来てしまう。

では、そういう人々を、コミュニティはどう受け入れていけばよいのか? もちろんそう簡単に答えが出る問題ではない。事実、地域福祉の大きな課題でもある。ただ、今日議論している時はきちんとまとめられていなかったのだけれど、地域福祉の問題を考える際、ニューカマーの人々に、どのようにその地域の問題に自分事として参画してもらうか、が鍵である、と思う。ニューカマーは往々にして「お客様」であったり「サービス受益者」であるが、サービス提供者側になりにくい。正直それでは、その街のことを主体的に考えにくいのでは、と思う。例えば小学校のPTAに外国人の会長がいたっていい。自治会活動に色んなニューカマーが積極的に「おもしろい」「自分達家族の為になる」という活動を取り入れることも大切かもしれない。そういう、ニューカマーにも役割と尊厳がきちんと提供される中で、いつの間にか異邦人性が消えていくのではないか。茹だるような暑さの中で、そんなことを考えていた。

挨拶と組織文化

ようやくコーヒーが身体に効いてきたのか、頭が回り始めた。

昨日はある先生にごちそうになり、お店をハシゴする。ほとんどビールしか飲んでいないのだが、ひどく身体がだるい。これは単純明快な「二日酔い」。それに運動不足まで重なって、ダルい朝なのだ。身体がだるいと、それはすぐに心にも伝染して、一気にやる気が失われてしまう。結局研究室に朝からいるのに、今までぼーっとネットをしたり、本を読んだり、だった。そういえば、新大阪駅構内の本屋でみた何かの本のタイトルに「机とパソコンを無くせば営業成績が上がる」というようなフレーズがあったが、確かにさっきまで僕のような状態だと、机とパソコンは何もしないための言い訳として通用する、といわれても、仕方ない。でもね、時計の針が午前10時を指す頃、ようやく頭の電源も入りました。今週はテストの採点もあるし、明日はスウェーデンからお客さんを研究室に迎えるし、そろそろ報告書のまとめもしなくちゃいけないし・・・と書き付けながら自分を鼓舞している。頑張るのですよ、タケバタ君。

で、頑張るのですよ、といえば、今日は僕の研究室がある建物の4階に高校1,2年生の皆さんが集まっている。夏休みのお勉強会だそうだ。みずみずしいエネルギーが詰まった高校生の皆さんと、朝、入り口で一緒になる。皆さん口々に「こんにちは」と気持ちよい挨拶をして下さる。何だか、すごく嬉しい。実はこの大学に入ってちょっと寂しいのが、多くの学生さんと「すれ違う」のだが、「こんにちは」と挨拶する、ことがあまりないことである。まあ、確かに僕も大学に入ったあと、あんまり挨拶することはなくなった。でも、この前模擬授業で訪れた高校では、皆さん挨拶して下さったし、半年間住んでいたスウェーデンでも、特定の建物の中では、知らない人でも目が合ったら「ヘイ!」なんて言い合っていた。そういう視点で眺めてみると、大学教員として甲府に来て、授業期間中は多くの学生さんにすれ違うのだけれど、教職員で挨拶をすることがあっても、学生さんと挨拶することはない。教職員と言ってもまだ面識がない方々がほとんどだが、大人(の格好をしている)人には会釈や黙礼をするのに、なぜか学生には挨拶しない。僕も学生もお互い何となく目を合わせず通り過ぎていくような気がする。これってすごく寂しいことだ、と前々から何となく気になっていたけれど、今日、見ず知らずの高校生に挨拶をされて、強く問題に感じ始めた。

そういえば、さっき何気なく読み返していた本の中でも、元宮城大学の学長である野田一夫氏が、大学開学時に「キャンパス内では、行き交う人同士で挨拶をしよう!」と呼びかけたことが、宮城大学の慣習、そして文化に高まっていった、と言っていた(「『革命』にかける7人の男たち」佐藤豊著、本の森)。宮城で出来て、山梨で出来ない、なんてことはない。現に、高校生達は、挨拶をしてくれるのだ。それが、どうして大学に入ってきて、挨拶しなくなるのか。ほんとは挨拶したいけれど、誰も挨拶しかけてくれないから、気まずくて、恥ずかしくって、挨拶を返してくれなかったら嫌だなぁ、なんて思っているうちに、挨拶しないことが「当たり前」になっていくのではないか。あ、でもそれって、あそこと同じだよなぁ・・・と連鎖反応は続く。

今、ある福祉組織で定期的に職員研修のお手伝いをさせて頂いている。新人だけでなく、施設長や幹部職員含めた全ての職員を対象にして、その施設が今陥っている構造的問題に立ち向かうための、一人一人の職員をエンパワメント(力づける)ためのお手伝いだ。実はその現場で今年の初め、全職員にインタビューを行い、その結果を発表したのだが(詳細は「論文・記事」のコーナーにあります)、その発表会の席で、ある職員の方がこんなことを言っていた。
「この組織では、『おはようございます』の挨拶がない。僕はするんだけれど、あまり返してくれない」
出勤時、スタッフルームに入る際、お互いあんまり挨拶をしあわない。先に来た人は、黙々と仕事をし、後から来た人は黙って更衣室へ向かう、という光景がある、というのだ。この指摘を受けた後の4月以後、少し挨拶をするようになった、という話も聞いたのだが、7月末の職員研修の場でその話を聞いたとき、再び挨拶をする人は少なくなった、というのである。でもその一方、新入社員のスタッフはいつも笑顔で挨拶してくれるので嬉しい、なんていうエピソードも伺った。

僕はこの挨拶というのは、結構根元的な問題の一つでもあるような気がしている。少なくとも挨拶をしあうことで、人と人との間の交流が出来、それが組織的に自然に生まれてくることで、良いエネルギーが流れ出す。すれ違いざまに「こんにちは」というやりとりをする事、それを通して、お互いが同じ場を共有する事を認め合い、その現場でお互いより良く・気持ちよく過ごしていこう、という契機が生まれて来る。このように、社会的に構成されていく現場において、気持ちよい一日を過ごすための原始的なツールとして挨拶が機能している、とは言えないだろうか。そして、このツールが使われなくなった組織は、大学であれ、福祉組織であれ、気がつけば内部での結束やその組織への愛着心が薄れ始めるのではないか・・・文字にしてみれば実に平凡なこの事実に、ようやく僕は向きあいはじめている。

そんな挨拶一つで、と言われるかもしれないが、そういう何気ない身体感覚に基づいた「常識」の変容こそ、文化形成に与える影響は計り知れないものがあるのではないか、と感じるのだ。
「能書きはわかった。じゃあタケバタはどうするねん?」
簡単です。今日から学生さんにも、すれ違いざまに、ちゃんと挨拶をしようと思う。ドドッと人とすれ違う時は大変かもしれないし、気後れするかもしれないけれど、出来る限り目があった人には挨拶しよう。こういう原始的なことの繰り返しの中から、組織文化が変わるきっかけが生まれたら、所属している人間にとって、これ以上気持ちのよいことはないのだから。高校生に、ええことを教えられてしまった。