リカバリーよりレジリエンス

表題がどちらもカタカナ語で申し訳ない。適切な日本語表記が見当たらないのだ。書きながら、よい日本語訳を考えたいと思う。

リカバリー(recovery)は回復力と訳され、レジリエンス(resilience)は復元力・弾性力などと訳されている。それだけみると、実に似ているようだが、Resilienceというタイトルそのものの本を読んでいて、二つの定義の大きな違いに気がつかされた。

Resilient systems may have no baseline to return to -they may reconfigure themselves continuously and fluidly to adapt to ever-changing circumstances, while continuing to fulfill their purpose. (p17)

「レジリエントなシステムは、戻るべきベースラインを持っていないのかもしれない。レジリエントなシステムは、不断に己を最構成しなおし、常に変化する環境に水のごとく適応するなかで、目的の達成にむけて動きつづける」

実は日本語訳の本を読んでいた時に全然読み流していたのだが、英語をゆっくり読んでいて、気づいた点が、この部分である。リカバリーは、ベースラインに戻ることを意味する一方、レジリエンスは、自らを再構成して、新たな環境に適応すると。この二つは、全く違う概念である、と気づかされる。つまり、リカバリーは「以前の状態に戻ること」を指し、レジリエンスは「過去と違う現在に再び適応するように自らのあり方を変えること」である。リカバリーは過去と地続きの現在を前提にして、過去のベースラインに戻れるという考え方である。その一方、レジリエンスは、戻るべき過去から切断された今を起点に、その「いま・ここ」に適応するために、自らのあり方を水のように流動的に変えていく、という考え方である。

いつも対話をしてくださっている阪大の深尾先生と、彼女の友人のStephenさんとの昨晩のZoom対話でこの件を取り上げてみたら、Stephenが「レジリエンスはproactでありad-hocismに通じていて、リカバリーはreactであり、既に知っている何か(something what you kew)に繋がっているね」と指摘してくれた。reactって、リアクション(reaction)の動詞形であり、何かが起こった後に反応することである。一方、proactはproが先に、という意味を持っていて、先んじて行動する、先手を打つ、などと辞書に書かれている。そして、ad-hocというのは、その場限りの、という意味である。

この議論を整理すると、リカバリーというのは、ある出来事が起こった後に、対応を考えることであり、しかもベースラインに戻る、という表現にもあるように、既に知っている過去に戻ることが念頭に置かれている。一方、レジリエンスというのは、起こってしまった現実に対して、そこで自身のあり方を変えながら、その場その場で流動的に先手を打ち、目的達成に向けて、不断に自らの方法論を変えていく、ということである。

なぜこの定義の違いを長々書いたのか。それは、こないだから書いている、新型コロナウィルス騒動において、僕たちが求められているのは、リカバリー型思考ではなく、レジリエンス型思考ではないか、と思い始めているからである。

リカバリーとは、過去のベースラインに戻ること、と書かれていた。それはある種、前例踏襲主義にも通じている。安定した、慣れ親しんだ過去に戻ろう、という考え方である。だが、例えば精神疾患に罹患するというのは、人間関係で極限状態にまで追い込まれ、ストレスが我慢できる限界を超えて、急性症状が発現する状態にならざるを得なかった、ということである。でも、病気になった後に、元のベースラインに戻る、とは、病気の前の仕事や学校に行けていた状態に戻る、だけでなく、そのときの高いストレス状態に戻ることでもある。ベースラインには、プラスもマイナスもくっついている。であれば、そのような過去に戻るのではなく、病気という形での身体表現に耳を傾けて、自らの高ストレスな環境や人間関係をこそ柔軟に変えていった方が、その後の生き心地は良いのではないだろうか。すると、リカバリーより、求められるのはレジリエンス志向ではないだろうか。

これを今の社会に当てはめたら、どのようなことが言えるだろうか。

コロナウィルスのピークを1,2週間で収束させて、4月には元通りの生活に戻りたい。オリンピックも観客を入れて通常のように開催したいし、インバウンド経済もそれに合わせて順調に回復したい。オリンピックを通じての経済成長を成し遂げたい、という当初目標を完遂させたい・・・。これらは、2019年までに予期していた未来、である。だが、全世界的に拡がるパンデミック的な事象に出くわしている、2020年3月9日の「いま・ここ」の時点で、上記の想定は、大きな変更を迫られている。というか、学校は一斉休校したし、大相撲は無観客試合をしている。だけでなく、世界各地で感染者や死者が出たり、などというニュースを読む中で、昨年までに想定した2020年のベースライン、そのものが崩れ去りつつある、ということも、薄々多くの人が感じ始めている。

つまり、元あった状態に戻すための努力を後追い的にしているというリカバリー的発想が、機能しなくなりつつあるのが、この2020年の春なのかも、しれない。いや、本当はいつだって元あった状態の復元は無理なのだが、それが極大化された状態で突きつけられたのが、今かもしれない。すると、僕たちに求められているのは、「不断に己を最構成しなおし、常に変化する環境に水のごとく適応するなかで、目的の達成にむけて動きつづける」というレジリエンスの考え方なのかもしれない。

カオスの状態の中から、新たな動きや展開を見据えて、誰かの言うことを鵜呑みにせず、自分の頭で考え続けて、より柔軟性を持って、臨機応変に、行動をどんどん変えていく。

これは、緊急時の動き方の基本のようにも、思える。ただ、救援現場にいるわけではない、日常生活を送る自分自身に言い聞かせたいのは、ハイになって、テンション高く、あってはならない、ということだ。

僕たちは、危機の時ほど、そこから逃れようと必死になる。ハイになったり、テンションを高めて、非常時を切り抜けようとする。非常時対応としては、大切なのかもしれないし、現に様々な現場で休みを返上して対応してくださっている方々には、心から敬意を表する。

だが、そういう持ち場にいない僕まで、ハイになったり、テンションを高める必要はない。不安なときほど、落ち着くことが大切だ。「いま・ここ」の不確実な状況を落ち着いて眺め、カオスの状態の中から、新たな動きや展開を見据えて、より柔軟性を持って、臨機応変に、自分が新たに出来ることやしたいことをやってみて、行動をどんどん変えていく。思考停止に陥らず、考え続ける。そういうあり方が、少なくとも僕自身に求められているのだと思う。

ここまで書いていて、昨年の香港ではやったあの言葉を思い出していた。

「心を空にしよう。水のように形をなくすんだ。水になれ。友よー」
(“Empty your mind. Be formless, shapeless, like water” “Be water my friend.”)

これは香港が生んだ世界的スター、ブルース・リーの言葉であり、香港デモを象徴することばである。

心を空にしよう、というのは、「あれをするはずだった、こうなるはずだった、そんな筈は無かった・・・」という想定内の思い込みから自由になれ、とも解釈する事が出来る。その上で、水のように形をなくすことで、思い込みや前例から自由になることで、自分の有り様を柔軟に変化させ、それが結果的に想定外の事態に柔軟に対応し、適応していくことが出来る主体へと変化できる。

僕が学んできたオープンダイアローグでも、「いま・ここ」での対話、や不確実性に耐えることの重要性が指摘されてきた。すると、ベースラインに戻るリカバリーのための対話、ではなく、不確実な「いま・ここ」に適応していくための、レジリエンスに基づいた対話、が必要とされているのかも、しれない。

で、レジリエンスをどう日本語にするか、だが、復活力でも弾性力でもない、柔軟に動き変わる力、とか、臨機応変に形を変える力、とか、そんな風に言えるだろうか。「○○力」って言えたらしっくり来るのだけれど、思いついた人があれば、教えてください。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。