不安を鎮めるための対話

世の中が、ピリピリしている。

所用で日中に神戸まで出かけた折に、他人のくしゃみに敏感になっている自分を発見する。つり革や手すりを持たないように、まめに石けんつけて手洗いするように、なるべく他人と濃厚接触しないように・・・普段は意識していなかったことに気をつけるだけで、くたくたになる。

トイレットペーパーが買い占められた報道を受けて、製紙会社が「倉庫に沢山あります」とツイートしているのを見た後でも、「我が家の在庫が無くなりそうなので買いに行ったら、近所のスーパーでもドラックストアでも売り切れていた」と妻が言うのを聞くと、落ち込む。そろそろ花粉症だという今の時期に、ティッシュを使うのを節約しなければならないと思うだけで、気が滅入る。

こないだから合気道の稽古で基本を学び直し、教わった気の結び方を稽古で反復したいと思った矢先に、稽古で使う学校の武道場が三月後半まで使用不可と知り、がっかりする。

こういう細かい日常の変化や不如意が折り重なるだけで、心身がぐったりする。激務という訳ではないのに、日常を過ごすだけで、へとへとになる。

そんな折だからこそ、対話が大切なのだ、と思う。不安をそのものとして表現するための対話が。何かを決めるための対話、ではなく、違いを知るための対話、が。

前回のブログにも書いたが、全国一斉臨時休校の「要請」が首相からなされた翌日の先週金曜日(2月28日)に、僕と同じように不安を感じていた中村さんと大美さんとZoom対話をした。それは、何かを決めるための対話ではない。互いがこの間感じている不満やモヤモヤを、そのものとして言語化するための対話の場だった。中村さんや大美さんと、意見を一致させることを目的とした訳ではない。それとは逆に、お互いがどんなことを感じているのか、という「違い」を、そのものとして分かち合うための対話だった。不思議なことに、そういう「違いを理解する対話」をするなかで、ソワソワした感覚が少し鎮まっていくようだった。

そのことを思い出して、改めて気づいたことがある。それは、「不安を不安として口にすること」の大切さである。

ピリピリした緊張感、落ち込んだ気持ち、がっかり感やくたくたが折り重なった状態・・・。そういった感情や心持ちの変化は、「どうせ」「しかたない」という蓋をして、閉じ込めている場合が少なくない。でも、それは間違いなく蓋をした自分自身の中で、澱のように重なっていく。しんどさやネガティブな感情がとぐろのように渦巻いていく。そして、そのとぐろのような感情に耐えられなくなると、ウツになり、心身に不調を来す。あるいは逆に、時に感情を他者に向けて反転させることにもつながる。ドラッグストアでマスクやトイレットペーパーがないと店員をなじる、咳をしている他の乗客に怒鳴る、ヒステリックにSNS上で他者を罵倒する・・・。内側にこもっても、反転して他者を攻撃しても、いずれにしても、不安や心配事の渦は増幅するばかりだ。

そのとき、相手をなじる前に、自分を責める前に、自らの不安を不安として、口に出してみることが、大切かもしれない。

「自分は○○で不安だ(心配している、落ち込んでいる、気が滅入っている、憂うつだ・・・)」

不安や心配事を、そのものとして表現する。こんなことを表現するなんて、軟弱なんじゃないか、馬鹿にされないか、愚かではないか、わがままじゃないか、我慢した方がいいのではないか・・・なんて、「自主規制」する必要はない。いや、こういうしんどいときこそ、自主規制は逆効果だ。心配事や不安、落ち込み、憂うつな気分を、自分を主語として、どんな風に感じているのか、をちゃんと表現した方がいい。

かくいう僕自身も、週明けの晩、再び不安がもたげて、いつも対話させて頂いている深尾葉子先生と、30分ほどZoom対話の時間を作った。お互いが近況報告するだけなのだけれど、その中で、僕自身が感じているしんどさやピリピリ感、不安感を話すだけで、ずいぶん楽になった。安心して話せる環境で、ちゃんと聞いてもらえる相手に向かって、自分の心配事を話すだけ。別にアドバイスも助言も結論もない。というか、それを求めてはいない。そうではなくて、「いま・ここ」の不安を、そのものとして言語化して、受け止めてもらえる。それだけで、ずいぶん僕の不安は宥和されたのだ。

「自分は不安に感じている。」

そう表現するだけで、その不安がなくなるわけではない。でも、言ってみてはじめて「あ、やっぱり僕は不安だったのだ」と改めて気づく。そして、それを肯定的に受け止めてもらえることで、「不安に感じてもいいんだ、その不安を不安として話してもいいんだ」、と落ち着いて安堵し、自分を納得させる。すると、ピリピリ感や不安、モヤモヤなど、そのものとして言語化すると、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ではないが、膨張した幽霊のような恐ろしい感覚は鎮まり、不安感という枯れ尾花が、そのものとして見えてくる。それが、身も心も、落ち着かせてくれる。

日常のルーティーンやこうすれば良いという「正解」がそのものとして機能しない、非日常的な世界。そこでは、不確実性が増大し、不安も心配事も急激に増える。その中で、無理に不安や心配事を抑圧したり、なかったことにすると、さらにその無視や抑圧によって、自分自身を苦しめたり、その暴力的エネルギーが反転して他者への攻撃にも繋がる。

だからこそ、今の時期に必要なのは、自他を攻撃するのではなく、不安を不安として口にすることである。そして、一人で表現するのは簡単ではないので、他者に向かってそれを話してみることや、他者の不安をじっくり聴くことである。そういう開かれた対話の中で、何かの結論=正解を決める必要は無い。いや、正解がわからないのである。だからこそ、相手の不安と自分の不安の違いを理解することが、すごく大切なのだ。「違いを知る対話」は、発散と収束で言えば、発散の対話である。明らかに不確実で不確定なことが多い状況ほど、まずはいきなり正解を求める収束の対話ではなく、不安や心配事などをとにかく互いに発散させる。その中で、発散がなされ、身も心も静まっていく。

今の時期に、僕は自分の不安を閉じ込めたり、押さえ込もうとしたくない。でも、不安に身も心も覆い尽くされたくはない。そんな中で出来ること。それが、不安をそのものとして認めて、それを伝え合う対話であり、結果的にそれが不安を鎮める対話に繋がるのではないか。そんなことを感じている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。