「二人の協定」と互いの成長

子育てをしながら、いろいろな父ちゃん母ちゃんの話を聞いていると、どうもパートナーとの対話をじっくりされていない、する場合でも限定的な対話の方が、結構いるような気がする。仕事に家事育児まであったら、パートナーとの会話は二の次、三の次、になるようだ。

でも、実は仕事も家事育児も大変だから「こそ」、パートナーとの対話が必要不可欠なのだと思う。それを痛烈に感じさせる一冊を、ゆっくり読んだ。

「誰だって、自分の成長を育んでくれる関係、パートナーが自分という人間を丸ごと理解してくれる関係を望むだろうが、そういう関係を育てるには長い時間と手間がかかる。些細な物事に常に関心を払い、同時に将来を見据え、パートナーがどんな成長を望んでいるかに絶えず目を向けておく必要がある。その努力が絶えれば、カップルとしてなんとか関係を続けることはできても、理想の関係になることはできない。」(ジェニファー・ペトリリエリ著『デュアル・キャリア・カップル』英治出版、p258)

この本は、共働きで子育てにも向き合う多くのカップルにヒアリングをし、人生の移行期の課題を探った一冊である。パートナーがフルタイムで働いているか否かには関わりなく、パートナーが仕事と子育てと人生をどのように豊かに送っていくのか、を考える上で、様々な「よそ様のご家庭の実情」がわかって、そのエピソードを読むだけでも、実に示唆深い一冊である。

その中で、特に大切なのが「パートナーがどんな成長を望んでいるかに絶えず目を向けておく必要がある」というフレーズ。子育てに忙しく、仕事もなんとかこなさなければならない、と思うと、パートナーの成長は優先順位の3番目以下に下落しやすい。正直、子どもが小さかった頃は、そんな風に感じていた時もあった。でも、パートナーと意見が分かれて、口論になるような事態を振り返ってみると、だいたいにおいて、「パートナーの成長」を気にかけられないときだった、と思い出す。子どもの成長を見守りながらも、自分自身も成長したい。そして、それは自分だけでなく、パートナーも全く同じはず、である。

だが、性的役割分業が大分減ってきた、とはいえ、ケア領域を「女の仕事」と思い込む男性も少なくないので、家事育児の時間は妻に偏りやすい。すると、夫は自分の成長に投資する時間や余裕を残す一方で、家事育児を押しつけられた妻の側は、その物理的・心理的余裕がないまま、置いてけぼりになりやすい。その不均衡が不満になり、夫と妻の間での認識にずれが残り続けていると、不満や認識のずれが爆発し、言い争いになりりやすい。「相手がわからずやだ」と避難したくもなる。

その際、この著者が言うように、「些細な物事に常に関心を払い、同時に将来を見据え、パートナーがどんな成長を望んでいるかに絶えず目を向けておく必要がある」。自分がどんな成長を望んでいるのか、は、頭の中で常に考えているから、わかる。でも、パートナーがどんな成長を望んでいるのか、は、絶えず聞いてみないと、わからない。しかも、自分自身の成長課題も、状況に合わせて変化するのと同じように、パートナーの成長課題も変化する。仕事に家事育児と精神的に追い詰められていると、自分のことでいっぱいいっぱいになって、つい、パートナーの成長課題にまで気を配れない。でも、そんなときこそ、相手は「わかってくれない」「気を配ってもらえない」とイライラしがちで、それは「些細な物事」に現れやすいのだ。ぼく自身もその「些細な物事」の変化に気づかず、何度もドンパチしたことがある。

それを回避するために、著者は「二人の協定づくり」をしている、という。それは、二人で意識化したい・常に確かめ合いたい価値観と限界、不安について話し合い、共通した基盤を見つけるのである。そこにはこんなことが書かれていた。(p65-69)

価値観・・・何を幸せと感じ、何を誇りと思うのか? 何に満足を感じるのか? いい人生とはどんな人生か?
限界・・・地理的限界(どこに住むのか、転勤するか)、時間的限界(どこまで仕事に時間がとられても許されるか、出張はどれくらいOKか)、在・不在に関する限界(別居や配置転換はどれくらい許容されるか)
不安・・・仕事や育児に対しての、あるいはパートナーとの関係性の中での不安が高まらないうちに、率直に話し合うことが出来るか

そして著者は、人生の転換期は、二人が一緒に生活を共にしはじめ「どうしたらうまくいくか?」を模索する「第一の転換期」、中年期にさしかかり「ほんとに望むものは何か?」を自らに問いかける「第二の転換期」、子どもが巣立ったり退職期にさしかかることによって「いまのわたしたちは何者なのか?」を振り返る「第三の転換期」があり、それぞれの時期に「二人の協定」を見直せるか、も問いかけている。

ぼくとパートナーの場合、「どうしたらうまくいのか?」の最初の協定づくりそのものが、大プロジェクトだった。価値観や生き方が全く異なる他人と暮らしはじめ、大いに戸惑うことだらけで、その違いが最大化して、些細なことでもめることが何度も何度もあった。そのたびに、お互いの不安をさらけ出しながら、何を大切にしたいのか、を何度もなんども話し合った。面倒に感じることもあったが、それをしないと離婚の危機は「いま・ここ」に迫っていたので、仕方なくし続けた部分もある。だがそうやって、二人で確認する中で、「二人の協定」は明文化されていないものの、共有されるようになっていった。ただ、限界については曖昧で、その分、ぼくは仕事が集中してくると、家にいないことが多くなったが、そのぶん、たまに二人で旅行に行って埋め合わせる、などでお互い了解していた。

ただ、子どもが生まれたのは42歳で、ちょうど二人とも中年期にさしかかっていたので、「ほんとに望むものは何か?」を再定義する必然性に迫られた。特にシビアな問いになったのが、地理的限界、時間的限界、在・不在に関する限界である。

放っておいてたら死んでしまう小さな命を前にして、「どこまで仕事に時間がとられても許されるか」は大幅に変更が必要になった。少なくとも子どもが小さい間は、自分自身の成長課題より、家事育児にリソースを注ぎ込まないと、二者関係から三者関係への移行期混乱は乗り越えられない。自分では仕事を減らして家事育児に注力しているつもりでも、パートナーから見れば、「なんでそれもしてくれないの?」と怒りが爆発することもある。そんな中で、子どもが生まれる以前は出張しまくっていたが、それをほとんどなくす、という大幅な仕事の仕方の転換が求められる。出張が自分の生活や成長の一部になっていた、と錯覚していたので、そのモードをやめるのは、ある種、自分の身を切られるような辛さだった。でも、子どもと妻との三人の生活を豊かにするためには、必要な「成長の痛み」だった。その上で、二人の親は関西で、当時僕たちは甲府に住んでいて、あまりに実家が遠いことへの心配や不安もあり、二人で話し合って、ぼくの職場を姫路に変えることにした。妻は専門職なので、甲府でも姫路でも、すぐに仕事に就けた。

この第二の転換期でも、子どもが生まれて最初の数年は、本当に何度も何度もぶつかり合い、話し合った。それまで15年ほど一緒に暮らし、何度も話し合い、「二人の協定」がしっかりできあがっていたものだと思っていたが、子どもが生まれて三者関係に移行すると、「二人の協定」は全く新たに書き直す必要があったのだ。

だからこそ、この本は、すごく味わい深く、自分たちの試行錯誤(七転八倒!?)のプロセスを言語化してくれるようで、実に味わい深く読んだ。そして、冒頭にも書いたが、「パートナーの成長」をどれくらい意識化出来るかが問われている、というのは、本当に胸に響いた。気がつけば、視野狭窄気味になり、自分の成長やそれにまつわる不安でいっぱい一杯になる。子どもの成長については夫婦で日常的に話し合うが、その話し合う二人の、お互いの成長を、そこで話題にすることは、意識化しないと出てこない。ぼくはそれを忘れている場面が多い、と痛感させられた。そして、この本を読み始めてから、何度かパートナーの成長について話題にし、それを一緒に考え始めている。

そういう良い変化を与えてくれる良書でもある。パートナーがフルタイムで働いているかは関係なく、カップルとしての成長を考える上で、重要な一冊になりそうだ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。