「先行研究に何も負っていないまったくインディペンデントな学術研究などというものは存在しない。
だから、先行世代からの学恩に対して十分にディセントであること。
先行研究がどれほど「時代遅れ」に見えようとも「短見」に映ろうとも、その先行研究があったからこそ、どういう知見が「時代遅れ」であり「短見」であるかが後続世代に明らかにされたのである。
研究史外観や先行研究批判というのは、「こんにちは」のあとに、「ひさしくご無礼しておりましたが、今日は近くまで参りましたので・・・」とか「先般はまことに結構なものを頂きまして、今日はその御礼に・・・」とか続けるのとまったく同じことである。
自分のいまの仕事はいつだってある「続きもの」のなかの一こまである。
誰かが私をインスパイアしたのである。
その消息について論及するのが先行研究批判である。」
(内田樹ブログ2006年07月21日「若い研究者たちへ」より)
僕には師は複数人いる。
研究や論文について常に暖かい助言をくださっている師以外にも、人生の様々な局面で導いてくださる師が、ありがたいことに何人かいる。それに加えて、内田樹師は僕が勝手に(一方的片思いで)弟子入りしているもう一人の師。本当に「参りました」の至言が多いが、数日前のブログにも参ってしまった。
大学院時代、いったいなぜ先行研究をこれほどReviewする必要があるのか、よくわかっていなかった。「この分野にはまともな研究がない」といつも呪文のように唱えていた。だが、その当時、自分自身は「その先行研究があったからこそ、どういう知見が『時代遅れ』であり『短見』であるかが後続世代に明らかにされたのである」という理路にはたどり着かなかった。「まともな研究がない」なんて言う前に、本当にそうか、を調べることをしなかった。そんな無知蒙昧な僕に、先行研究や抽象的議論の大切さを周りで仰る方々はいても、それがどのように大切なのか、を心に響く形で僕に伝えてくださる方はいなかった。だから、気がつけば「先行世代からの学恩に対して十分にディセント」ではないタケバタがいた。
今ようやく「学恩」に対して、少しは「ディセント」になりつつある自分がいる。
最近何度も書いているが、他責的かつタコツボ的に「○○が悪い」というのではなく、「どういう知見が『時代遅れ』であり『短見』であるかが後続世代に明らかにされた」、そのありがたい(反面)教師である先行研究に対して、ご挨拶してから、更なる論を進めていけばいいのである。「まともな研究がない」なんて不遜なことを言う前に、どうして現時点から懐古的に見れば「まとも」に見えない研究が出てきたのか、への謙虚な配慮を、当時の文脈にあわせながらReviewしておくことが、「ディセント」なのだろう。
同じ内田、つながりでは、内田義彦氏も、同じことを言っている。
「現代を、あたかも後代の人の眼によるかのごとく透明にとらえる作業の訓練のためにも、過去を-後代からの透明な眼ばかりでなく-同時代に生きる人の曇った眼を合わせもって捉える必要がある」(内田義彦「生きること 学ぶこと」藤原書店 p104)
内田師は、やはり、すごい。