「今の私たちの世界に『神の代訴人』や『神の遺言執行人』を自称する人々はもうそれほど多くはないし、その名乗りを信じる人も少ない。しかし、『死者の代訴人』、『死者の遺言執行人』たることをみずからの倫理的責務であると信じている『善意の人々』は数多く存在する。かつてマルクス主義者は『プロレタリアと第三世界の被抑圧大衆』の前に恥じ入ることで、おのれの『政治的正しさ』を基礎づけ、知的威信を獲得しようと望んだ。今また別の人々は、そのつどの『弱者』(被抑圧者、被迫害者、被差別者)を探し出し、彼らの『代訴人』という立場から正義を要請しようとする。その初発の動機がどれほど善意であっても、その理路はついに存在論的であることをまぬがれない。というのも、そのようなとき、『他者』たちは、まさに『私』の道徳的・知的卓越の『証人』として存在のうちに召喚されているからである。『他者』たちは『「私」を審問する』仕事を通じて、『「私」を基礎づける』作業に功利的に使役されている。『他者』たちは全体性のエコノミーの中にきちんと戸籍登録され、IDカードを発行され、その勤務形態についてことこまかな規則を課されて、『使役』されるのである。」(内田樹『死者と他者-ラカンによるレヴィナス』海鳥社、p188-189)
グサリと胸に突き刺さるフレーズである。
障害者福祉政策を研究している一人の人間として、僕自身のものの考え方が、「彼らの『代訴人』という立場から正義を要請しようとする」枠組みの中にないか? 正直に言うと、ないとは言えないような気がする。だが、内田氏は彼の師のレヴィナスの「他者論」を元に、こう断言する。
「そのようなとき、『他者』たちは、まさに『私』の道徳的・知的卓越の『証人』として存在のうちに召喚されている」
タケバタの「道徳的・知的卓越の『証人』」として、「おのれの『政治的正しさ』を基礎づけ、知的威信を獲得しようと」するその手段や道具として、「代訴人」や「遺言執行人」役割になろうとしてはいないか? そういうスタンスで障害者を「他者」として見立てようとするのならば、障害者とカテゴライズされる人々からすると、タケバタという「私」によって、「『「私」を基礎づける』作業に功利的に使役されている」という疑いを抱かれる可能性がある。実際に、ある知人の障害者は繰り返し、専門職や研究者を「障害者をダシにして生きている」と告発している。その言説の鋭さ、厳しさに違和感を覚えながらも、でも「功利的に使役されている」側からの強い反発の主張と考えたら、それにはごく当たり前の正当性を感じている自分もいる。
ではどうしたらいいのか?この問いに一元的に答えられるマニュアルとか模範解答などないように思う。ただ、現時点で感じているのは、常にこの「代訴人」や「遺言執行人」的役割に自らが陥ることがないか、をチェックする姿勢、であろう。障害者政策で言えば、障害当事者が繰り返し主張してきたことは、「私たち抜きで私たちのことを何も決めないで(Nothing about us without us!)」であった。つまり、「代訴人」や「遺言執行人」に障害者が全てを委ねた覚えは全くない、ということである。「代訴人」や「遺言執行人」ではなく、自分自身が訴えることに耳を傾けてほしい、ということである。障害者に関する政策を形成する過程に、「代訴人」でなく「本人」を入れてほしい、ということである。
この現実から見てみると、障害者自立支援法の政策形成過程でも、あるいは福祉現場の調査をしていても、「代訴人」や「遺言執行人」が跋扈しているのを、本当によく眼にする。問題は、「本人」が訴える力、主張する力を信じることなく、はなから無理と決めつけて、「代訴人」がシャシャリ出てはいないか、という点である。あるいは、「本人」を「功利的に使役」しながら、「本人」の想いや願い、ではなく、「代訴人」の想いや願いの実現のためにアクセクしてはいないか、という点である。「本人」の自己実現の為の法や制度や福祉政策のはずが、気がつけば「代訴人」達のそれとなってはいないか、ということが一番の問題なのだ。
だが、「本人」の「訴え」だけで、必ずしも物事が通らない時もある。例えば国政を左右する国会議員は、国民の「代訴人」として機能しているともいえる。その時、「代訴人」役割を引き受けるものに大切なのは、「代訴人」の自己実現の為ではなく、「代わりとなる」べき「本人」の声をどう政策に反映させるか、という点である。この辺の誠実さが「代訴人」に欠けているから、長年の「代訴人」である政治家に対する不信に結びついている。
だが、これは何も政治家に限ったことではない。この批判の眼を、他責的に、ではなく、常に自分にも「有責的」に引き受け、自覚できるかどうか、が、僕自身がこれから仕事をしていく上でも、一つの分かれ目のような気がしている。