ささら型と想像力

 

昨日は授業の合間に近所の看護学校で一コマ「特別講義」。

なにやら「社会福祉演習」ということで、班毎にそれぞれ「生活保護」「老人福祉」「母子家庭」「身体障害者」などテーマを決めて調べてまとめているのだが、そのまとめに向けてアドバイスとなるような講義をしてほしい、とのこと。実は学生さん達の「中間レポート」が送られてくる前に授業のレジュメを送ってしまい、その後当日朝になって学生のレポートを読んで、「こりゃまずい」と追加資料を作る。何がまずいって、学生さんの聞きたいニーズと自分の話す予定に結構大きな「開き」があったのだ。聞き手の側にとったら、せっかくレポートを書き上げる途中で「関連する講義」って言われて、自分たちが調べたことと全然関係ない講義をされたら、僕だったら聞く気が失せる。なのでとりあえず、「中間レポート」の内容に関連する資料を20分くらいででっち上げ、1限の授業後、あたふたと車を走らせる。

現地に着いたのが、お約束の11時過ぎ。既に学生さん達は待っているご様子なので、早速教室に伺う。マイクを向けて学生さんの「ノリ」を調べながら場を温めているうちに、気がつけば45分経過。まだ、本論に入っていない。こりゃあ大変、とそこから超特急で話しをしていく。最後の方で、こんなことを口走っていた。

看護師の皆さんが「専門性」を口にするとき、そこにはある種の危険性を伴う。それは誰にとっての、何のための「専門性」か、という点である。その昔、丸山真男という思想家が「日本の思想」という本の中で、「ささら型」と「タコツボ型」のモデルを提示してくれた。「タコツボ」って、いったんタコさんがそこに入ると、出てくる事が出来ない。皆さんが目指そうとする認定看護師、とか、専門性、とかが、そういう「タコツボ」になってはいないか?取れて満足して給与も上がって、でも気がつけばその「枠組み」に居着いてしまって、もともと何のために専門性を高めたかったのか、という点を忘れてしまはないか? そこで丸山先生は、「タコツボ型」と比較するために、「ささら型」というモデルを提供してくれた。これは、帰るべき共通基盤、というか、根っこがあって、そこから様々な専門性に向かって分化していく、という木の根っこから幹、各枝葉、へと分化していく様を基にしたモデルである。

看護師を目指して勉強している皆さんが、この看護学校に入った時、その理由の一つとして、「困った人を助けたい」「人の役に立つ仕事をしたい」という純粋な動機があった人も多いと思う。その動機、というか、根っこの部分が、仕事を始めて組織にドップリ浸かり、専門性を高めて業界用語に詳しくなるうちに、気がつけば「職場のしきたり」「昇進街道」「病棟内でのヒエラルキー」「給与と立場の向上を求めた転職まっしぐら」・・・といった様々な「タコツボ」の中に入ってしまう。すると、もともと持っていた根っこの部分、何か人を助けたい、とか、お役に立ちたい、という気持ちが、「あのころは何もしらなかったから」「青かったから」「理想と現実は違う」と矮小化されて、ヘタをすれば自分の中で抹消されていく。こういう過程で、専門家主導という問題が生じ、その中から医療専門職による患者支配、いわゆるパターナリズムの温床が育まれていくのである。

その際、看護職にとって大切なのは何か、それは常に「あなたがその立場だったら」と想像すること。たとえば幻聴に苦しむ、ってどういう気持ちなんだろう? 自分で自分のことがコントロールできず、暴れてしまうとき、どんなことを感じているのだろう? いきなり白衣を着た屈強そうな男が数人やってきて、自分の腕を掴んで注射を打とうとしたら、自分ならどうするだろう? 自分がもし何十年と雑居部屋に「住む」ことになったら、世の中を肯定的に眺めていれるだろう? 月に8万円弱の生活保護費や障害年金だけで、甲府で一人暮らしをする、ってどういうことだろう?・・・

これれのことを、教科書では、「病識がない」「急性期の興奮状態の患者には注射も必要」「生活保護受給者の中には不正に受給する人もいる」「所得保障に問題がある」・・・などとサラリと書いている。

でも、その対象者である患者さんお一人お一人にとって、それらの現実は、決してサラリと流すことの出来ない、重い現実だ。それを「専門性」の御旗のもとで、専門職がよいと思う処置を一方的に押しつけていたら、それは果たして自分の根っこに合致する看護なのか? 確かに教科書ではそういう処置をするべきだ、こういう制度になっている、と書いてあっても、対人間のお仕事。その相手が、どんな風に思っていて、その人がどういうサインを出していて、何を望むのか、と想像力を働かし、出来る限り当事者主体となって、アセスメントなり処置なりをしていく、つまり根っこの「この人の役にたちたい」という部分を専門性という「知ったかぶり」で閉ざすことなく、常にそこにアクセスしながら、最新の専門的知識や技術を活用して、「ささら型」の根っこの部分を活かすための、看護なり支援なりをする、それが大切なのではないか。それが出来ていなかったら、それはあくまでも「他人事」看護なのではないか?

こんなに綺麗にまとめて言えたわけではないが、おおよそこういうことを話したあと、感想をお聞きすると、僕のヘタな話しでも、少しは皆さんの中に何かが届いたようだ。「自分たちがやっていた中間レポートが、いかに表面的で、他人事として、○○が悪い、と他責的なレポートだった」という学生さんの感想が、一番嬉しかった。自分事と他人事、ささら型とタコツボ型、というキーワードだけで、感受性豊かな彼ら彼女らには、ビビッと届いているのだ。こういう応答能力、というのは、人を看る現場ではすごく大切な能力である。お話ししている最中も、多くの学生さんから真剣な眼差しや、真っ直ぐに僕の話に向かってくれている、というオーラのようなものをヒシヒシ感じていたので、そういうコメントをいただけたことはたいそう嬉しい。

今の皆さんの素直さ、真っ直ぐな姿勢を、「専門性」や「職場経験」で減退させず、どうか5年後10年後も持ち続けてほしい、そう願いながら、看護学校を後にしたのであった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。