バイアスやストーリーの自覚化

僕が、一日で一番本を熱心に読む場所は、もしかしたらお風呂もしれない。

そう言うと、かならず尋ねられる。「本がシワシワになりませんか?」
ご心配なく。日本の本の紙質は非常に良いので、新刊本なら、間違いなくパリッとしている。この前、状態の良い1989年印刷の古本を読んでいたが、それでも何ら問題はなかった。たまに赤ペンまで持参して、風呂の中で線を引いたりコメントするも、大丈夫。その昔、居間の本を片付けない僕を懲らしめようとした家人にイタズラされて、その時読んでいた本を洗濯機に隠されたことに気づかず、そのまま「洗ってしまった」こともあったが、さすがにシワシワになるも、乾かしたらその本は読めたくらいだから。(とはいえ、赤ペンの線は消えましたが・・・)
なぜ、風呂読書が好きなのか。それは、この情報化社会の中にあって、風呂空間だけは、完全に外界と遮断が出来る、ということ。いや、もちろんお風呂にテレビや携帯を持ち込める時代とは知っているが、僕はそれはしない。湯気の中、ある種、胎内に回帰するような空間の中で、ネットや騒音などのノイズを遮断して、本とじっくり対話する時間。当たり前だが、図書館や他者から借りた本は持ち込めないので、自腹本ばかり。そして、自腹本なら、「読むべき本」ではなく、「読みたい本」をお風呂読書のお供にする。
昨日も、気づけば1時間半、ある本の世界にすっかりはまり込んでいた。最相葉月さんの新刊『セラピスト』(新潮社)。ベストセラーの『絶対音感』の著者だ、とは知っていたが、縁あって初めての彼女の著作に触れる。そして、その世界にはまり込みながら、僕自身が精神医学や臨床心理に興味を抱く部分と、彼女の執筆動機が似ている事に気づく。
「自分のことって本当にわからない-。そう。自分のことって本当にわからない。」(p320)
僕自身は、高校生の頃、河合隼雄の名著『こころの処方箋』(新潮文庫)に出会い、中学時代から北杜夫のエッセイ好きもあって、臨床心理や精神医学に興味があった。で、入った大学では臨床心理のコースもあったのだが、心理学実験には苦手な統計が必須であることと、あるユング派セラピストの教官に「君は黙って相手が話し出すのを待つことが出来る?」という問いかけに答えられず、社会学系に切り替えた思い出がある。でも、ずっと興味関心は持ち続け、本書に出てくる河合隼雄や中井久夫、ユング派の論考、木村敏・・・などの著作は読み続けてきた。また、一冊目の拙著『枠組み外しの旅』は、副題が「個性化が変える福祉社会」というタイトルに象徴されるように、本を書き進める中でユングの「個性化」理論を取り入れた事から、思わぬブレークスルーを頂く事が出来た。でも、「自分のことって本当にわからない」というのは最相さんと同じで、時折そんなことを、ブログにも書き付けている。 (「内奥への旅」「人生の正午にさしかかり」・・・)
で、ここ数年、そうやって本を読み続け、自分自身の考えも時折書き続けながら、自分自身や自分の心を巡る問題を眺め続けてきた。同じように、最相さんも、このテーマに取り組み始めた時、臨床心理学者の木村晴子氏から、「この世界を取材するのであれば、あなたも自分を知らなければならない」と言われた。そのことを考え続け、後に河合隼雄氏のご子息で同じく臨床心理学者の河合俊雄氏に尋ねると、こんな答が返ってきたという。
「自分はこう見てしまうといったバイアスや、相手にこういうことをしゃべらせたいという自分なりのストーリーを自覚するということでしょうか」(p319)
自分の「バイアス」だけでなく、「自分なりのストーリー」の「自覚化」。
ああ、と繋がった感覚。それは、この正月からずっと読み続けている、ユング心理学出身で、今では独自のプロセス指向心理学を体系付けたアーノルド・ミンデルの最新邦訳の中にも、この「自覚」がキーワードになっているのだ。
「自覚は戦わない。自覚は戦いに気づき、またその場で起きているさまざまな出来事に気づくが、何かと同一化したり、それらに評価を下したりはしない。自覚があれば、あなたはみんなの自発的な行動に気づくことができ、そこからみんなにとっての最善の道となる思いがけないプロセスが展開するだろう。」(ミンデル『ディープ・デモクラシー』春秋社、p55)
最相さんも、あとがきの中で、僕と同じように「沈黙が苦手」と告白する。「あのう、といわずにただ黙っていることがいかにむずかしいかと思う」(p331)というのは、僕自身にもそのまま当てはまるリアリティである。ただ、彼女が中井久夫へのインタビューから学んだのは、次の視点であった。
「言葉によって因果関係をつなぎ、物語をつくることで人は安住する。しかし、振り回され、身動きさせなくなるのもまた言葉であり、物語である―。中井久夫のそんな言葉が取材中、頭を離れなかった。それは、ノンフィクションといいながらも、自分の見立てやストーリーからはみ出るものを刈り取る行為を意図的に、あるいは無意識のうちにしていることを自覚化していたからである。」(最相、同上、p332)
「言葉によって因果関係をつなぎ、物語をつくることで人は安住する」
だからこそ、この「安住」打ち破られた時、別の「因果関係」に基づく「物語」が打ち立てられる。例えば、「聴覚障害を乗り越えた」「奇跡の」作曲家として売り出されていた佐村河内氏が、実は別の作曲家に作曲を依頼していた問題に関して、マスコミは今度は「偽装だ」「耳は聞こえていたのに」という別の「因果関係」に基づく「物語」で、彼を糾弾する。マッチポンプ的に、ある人を取り上げ、落とす。この国の政治家や芸能人、スポーツ選手などの有名人に、マスコミが行ってきているのは、このような定型的な物語への「安住」と、それが破綻した時に別の物語へと作り替える事で、少なくとも、物語の作者のマスコミと、聴き手の視聴者が「安住」する共犯関係の構築である。しかし、この共犯関係の最大の問題は、「自分の見立てやストーリーからはみ出るものを刈り取る行為」への「無自覚」さ、である。自分の「バイアス」や、「自分なりのストーリー」の癖の無自覚である。
この「無自覚」の何
が問題なのか。それは、ミンデルの議論を「逆さ」にすればわかる。「何かと同一化したり、それらに評価を下」すことに一生懸命になると、「みんなの自発的な行動に気づくことができ」ず、気づけば他者と「戦い」をはじめることになり、「みんなにとっての最善の道」を描くプロセスを歩めない、と。これって、中国や韓国との敵対的感情のマッチポンプ、とも共通項がありそうだ。
ソクラテスではないけれど、「汝、自身を知れ」とは、自らの「バイアス」や「ストーリー」を自覚化せよ、ということだと、つくづく思う。
「自分はこう見てしまう」「相手にこういうことをしゃべらせたい」という、普段主題化されない、ある種の支配的欲望。これに無自覚であれば、自分が選択的に「見てしまう」情報のみを、「ツイッターではみんなこう言っている」と「事実認識」として受け止め、「○○さんもこう言っているではないか」と、自分の聞きたいことを「しゃべらせ」、それを「因果関係」の「物語」でつなぎ、その世界に「安住」してしまう。しかし、そんな狭隘な「因果関係」だけではうまくいかないから、時として、「振り回され、身動きさせなくなるのもまた言葉であり、物語である」のだ。では、どうすればいいのか?
それも、中井久夫の発言の中に、ヒントが隠されている。
「言語は因果関係からなかなか抜け出せないのですね。因果関係をつくってしまうのはフィクションであり、治療を誤らせ、停滞させる、膠着させると考えられても当然だと思います。河合隼雄先生と交わした会話で、いい治療的会話の中に、脱因果的思考という条件を挙げたら多いに賛成していただけました。つまり因果論を表に出すなということです。」(p270)
「脱因果論的思考」とは、なかなか言い得て妙な表現である。「因果関係」を一つの「フィクション」と認識する、ある種の「メタ認識」のこと、ともいえる。「自分はこう見てしまう」「相手にこういうことをしゃべらせたい」という、自分の世界認識に通底する支配欲を認識する「メタ認識」である。この「メタ認識」があると、自分が強く「因果関係」として結びつけやすい要素「以外」の、別の物語、別の可能性が、生まれてくるのかもしれない。そういえば、それを河合隼雄自身が、茂木健一郎との対話の中で、次のように語っていた。以前のブログでも引用しているが、もう一度。
「近代科学は、ご存じのように、関係性を絶って、客観的に研究する。しかし、われわれのほうは関係性がなかったら、絶対、話にならない。だから、その関係のあり方をすごく大事にしていく。それから生命現象というものは、物理の力学のように、これだけ質量があって、位置がこうで、というふうに定義できないんですね。また物理は、目で見えていること以外のことを絶対扱わない。しかも、ほかにどんな可能性があるか、それに気づこうとしない。それに気がついて、そこに注目して、ユングなんかはやったわけですね。」(河合隼雄・茂木健一郎『こころと脳の対話』新潮文庫、p16)
「原因」と「結果」とは、様々な「関係性」の中から、「目で見えていること」の一つを選び取った、複数ある物語のうちの一つ、である。しかし、「関係性」の中から展開される「生命現象」に関しては、一つの「因果関係」以外の、別の「可能性」があり得る。それを、安易に「因果関係モデル」(=客観性)の中に閉じ込めず、生命現象そのものとして眺める事は出来ないか。これが、河合の問いかけである。これは「奇跡の音楽家」「詐欺的行為」などの表面的レッテルで「わかったふり」をして、その「物語」世界に「安住する」、その己の認知のバイアスを認識する「メタ認知」であり、「脱因果的思考」である。
風呂読書が大切なのは、電話やネット、社会的しがらみや立場主義といった、「つながり」によるバイアスから、いったんは自由になれること。その上で、自らの内奥に潜む、自らの「バイアス」「ストーリー」を自覚化しやすい空間である、ということかもしれない。だからこそ、毎日風呂に浸かってどっぷり汗をかきながら、本の世界に浸りながら、実は自分の「物語」世界を「自覚化」する旅に、出ているのかもしれない。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。