この連休中は、前半が風邪を引いて本を読みながらダラダラすごし、後半は原稿を書いていた。なので、比較的いろんなジャンルの本に目を通していた。その中で、『日本の反知性主義』(内田樹編、晶文社)を読んでいると、ワクワクする表現が沢山出てくる。反知性主義に関して、ではない。「反知性主義」を語る、ということは、「知性とは何か?」を語ることでもある。エッジの効いたオモロイ著者達が、「知性とはなにか?」を語るのを読んでいると、こちらもワクワクしてくる。まずは編者の内田先生の定義から。
「『自分はそれについてはよく知らない』と涼しく認める人は『自説に固執する』ということがない。他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて『得心がいったか』『腑に落ちたか』『気持ちが片付いたか』どうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に変えることができる人を私は『知性的な人』だとみなすことにしている。その人においては知性が活発に機能しているように私には思われる。そのような人たちは単に新たな知識や情報を加算しているのではなく、自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えているからである。知性とはそういう知の自己刷新のことを言うのだろうと私は思っている。」(内田樹、p21)
大学院生の頃、大熊一夫師匠に教わった最も大切なことの一つが「分かったふりをしない・知らないことは知らないと言う」ということであった。「わかったふり」をすることで、目の前の問題を問題として認識出来なくなる、と。ギリギリと考え続けるためには、他人の説明や本を鵜呑みにせず、目の前の事象がなぜ生じているのか、について、「なぜそうなのか?」をギリギリ考え続けることが必要不可欠だ、と学んだ。
これを内田流の表現で言い換えるなら、「自説に固執」しない、ということだ。「これも、あれも知っている!」と知識のストックの多さを自慢するのは、所詮「クイズ王」に過ぎない。残念ながら、どんなクイズ王でも、スマホの検索機能には、ストックの面では勝てない。インターネット時代においては特に、知識の多寡ではなく、「自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替え」る、という意味での、「知の自己刷新」こそ、「知性」そのものである。
そして、拙著『枠組み外しの旅』を書くプロセス自体も、自慢げに響くかもしれないが、「自分の知的な枠組みそのものを作り替え」る営みであった。とにかく、安易に「わかったふり」をしたくなかった。様々な著者や、自分が過去に書いた文章と対話しながら、「『得心がいったか』『腑に落ちたか』『気持ちが片付いたか』どうかを自分の内側をみつめて判断する」作業を、虚心坦懐に行ってきた。時には学者のルールや世間の常識から逸脱しているように思えることでも、自分の内側と対話を重ね、「知的枠組みを作り替える」という意味での「知の自己刷新」に必死になって取り組んで来た。その中で、風穴をあける体験が出来たのではないか、と感じている。そして、これもおこがましい表現かもしれないが、その「知の自己刷新」の体験こそが、「ギリギリ考え抜く」ことそのもの、なのかもしれない。
次は、作家の高橋源一郎さんの定義。
「『歪み』を見つけること、そして、その『歪み』を描くこと。それが『知性』だ。『歪み』が見えることを、『知性』がある、っていうんじゃないかな。」(高橋源一郎、p124)
内田・高橋定義に共通するのは、「知性」を感覚的言語で表現している、という点。IQや情報のストック、あるいは情報処理能力をさして、「知性」と述べてはいない点である。高橋さんは、「知性」を「『歪み』の認識」として表現している。これは「多数派が作る社会の『歪み』」を認識することだ、とも述べている。
例えば精神病院って、「多数派が作る社会の『歪み』」の象徴的空間、かもしれない。そこに排除されること、そこから出られないことが何を意味するのか。なぜ日本では30万人以上の人が、その空間に未だにいるのか。それを「必要悪だ」「しかたない」「受け皿がない」と分かったふりをせず、なぜそうなのか、本当に仕方ないのか、を考え続けることが「歪み」を見つけることにつながる。また、私たちが、「どうせ」「しかたない」と見ないことにしている・蓋をしていることの中にこそ、この社会の「歪み」が多く内包されている。沖縄の基地移設問題や、原発再稼働問題にしても、「わかったふり」をせず、「多数派が作る社会の『歪み』」をどう自分事として認識するか、が「知性」には問われている。
もう一人、今度は映画監督の想田和弘さん。
「知性とは、自分の頭で吟味し、疑い、熟考する能力や態度のことである。それは『結論先にありき』の予定調和や、紋切り型でお仕着せの思考を拒絶する。知性の発動に『ショートカット(近道)』はあり得ない。それがゆえに、知性が充分に働くには時間と労力が必要である。同時に、時間と労力をかけて考えても考えても、なんの地平も開けず、したがって何の結果も得られない可能性もある。そういう『空振りのリスク』を潔く引き受け、知的投資をドブに捨てる覚悟の上で、それでも誠実に”発見”や”気づき”を希求すること。それが真に『知的な態度』なのではないか、と思う。」(想田和弘、p243-244)
これも内田先生の受け売りになるが、「知性」とは、市場原理主義のタームとはだいぶ違う。四半期決算で回収できないもの、それが「知性」である。つまり「時間と労力が必要」なのである。しかも、時間と労力を投資することが、見返りやリターンに直結するとは限らない。「そういう『空振りのリスク』を潔く引き受け、知的投資をドブに捨てる覚悟の上で、それでも誠実に”発見”や”気づき”を希求すること」という部分は、すごくわかる。「発見」や「気づき」は、「想定外」のものであるから、だ。
市場主義や会社経営においては、「これだけ投資したら、このようなリターンがあります。リスク分散はこうやっています」というロジックは、説明責任として必要不可欠なことである。なるべく、「想定内」にすることが求められる世界である。それでも、株価の暴落や敵対的買収など、「想定外」の事態は起こる。しかし、一般的には「想定内」で考える事が、クールなことだ、と誤解されがちである。でも、ほんまもんの事業も投資も、そして学びも、実は「『結論先にありき』の予定調和」ではない。それは複雑系の世界であり、予測可能性とは、安冨先生の言葉を借りれば「計算量爆発」の帰結に陥るからである。(さらに言えば、本当に「知性」のある経営者なら、「想定外」の事態に心が開かれている柔軟性がある)
つまり、「知性の発動に『ショートカット(近道)』はあり得ない」のである。「こうなるはずだ」と「自説に固執」せず、「多数派が言うことの歪み」に自覚的になりながら、「時間と労力」をかけて、手を抜かずに「自分の頭で吟味し、疑い、熟考する」こと、それが「知的な態度」なのである。テキパキと処理能力を高めるよりも、時間がかかっても、ウロウロしながら、「空振りのリスク」を潔く引き受けながら、それでも「歪み」に敏感になり、自分の身体が「腑に落ちる」まで「ギリギリ」考え続けること。それが「知性」なのだろう。そして、こういう営みをする中で、自らの「知の枠組み」の「作り替え」が少しずつ、生じるのだと思う。
僕自身は、多くの先達から学び、「知の枠組み」の「作り替え」作業の面白さや、ワクワクさ、に気付いてしまった。だから、予定調和や「想定内」の世界に身を置くことは出来ず、「空振りのリスク」を覚悟の上で、「知性」の世界を希求する旅に出続けている。
そう、「知性」って、お高くとまることでも権威主義的に小難しい知識をひけらかすことでもない。もっとワクワクするし、イノベーティブなことなのだ。そう思うと、「反知性主義」って、ずいぶんつまんなさそうだよなぁ、とつくづく感じてしまう。でも、他人をとやかく批判している暇はない。自分自身の「知的枠組みの自己刷新」を目指して、この連休もギリギリ考え続けたい、と思う。