自律性を支援するには

昨日、ゼミ生の皆さんと飲み会だった。彼ら彼女らの語りに耳を傾けながら、ある一冊の本を思い出していた。

「自律的であることは、自己と一致した行動をすることを意味する。言いかえれば、自由に自発的に行動することである。自律的であるとき、その人はほんとうにしたいことをしている。興味をもって没頭していると感じている。たしかな自分から発した行動なので、それは偽りのない自分である。統制されているときはそれとは対照的に、圧力をかけられて行動していることを意味する。統制されているとき、その行動を受け入れられているとは感じられない。そういう行動は自己の表現ではない。なぜなら、統制に自己が従属しているからである。まさに疎外された状態だと言ってよい。統制されたり疎外されたりすることなく、自律した偽りのない自分であることが、生活のあらゆる場面で大切だ。」(デシ&フラスト『人を伸ばす力-内発と自律のすすめ』新曜社、p3)
僕の3,4年のゼミは、自分の頭で考えること、を大前提にしているゼミであり、自発的で、議論にも積極的な学生達のあつまりだ。そして、少なからぬゼミ生が、これまでいわゆる「よい子」であった、と思われる。ただ、「よい子」というのは、世間の基準における評価が高い、ということと、しばしば一致している。すると、世間の基準に自分を合わせてきた、という意味での評価の高さは、下手をすれば「親や周りの人々、世間の『統制』を受け入れてきた」ということにつながりかねない。それが気になって、飲み会の時にそれとなく聞いてみると、ぽろぽろ目に涙を浮かべるゼミ生も、やっぱり出てくる。そんな折に、ちょうど読んでいた本の一節を思い出したのだ。
内発的動機付け」研究の権威である社会心理学者のエドワード・デシの考えを、ニューヨークタイムズ元編集者がわかりやすく伝える形で整理した共著には、「支援する」側が学ぶべき至言にあふれている。冒頭における「自律」と「統制」の」違いも、その一つ。ゼミ生だけでなく、いわゆる「よい子」の中には、これまで「統制に自己が従属している」人生を送ってきた人も少なくない。ただ、大学生となり、親や教師、コーチや彼氏・彼女の言うことに「違和感」を感じ始めたとき、僕のゼミの門をくぐる。それは、何だかオカシイ、という不全感を感じ始めているからかも、しれない。そういうゼミ生達をこれまで何人もみてきた。そして、彼ら彼女らの内在的論理を一言で表現するのが、先の表現を用いるならば、「統制」や「疎外」された状態、である。
一方で、ゼミ生のなかには、そもそも最初から我が道をスクスク歩んでいる学生の一群もいる。何だか奔放にやっているようにみえるが、発表やコメントをさせると、すごくシャープで切れの良い発言をしてくれる。彼らの言動を見ていると、「自分から発した行動なので、それは偽りのない自分である」と思える。他方、涙を見せる学生とは、これまでの行動に、自己評価ではなく、他者評価の軸が強く影響している、と思われる場合が少なくない。それは、「自己と一致した行動」ではなく、「他者の評価と一致させる行動」である。しかし、原則的に、人は他者の意見を完全には理解できない。ということは、「他者の評価と一致させる」というのは、実は到達不可能な幻想であり、その幻想を追い求める、ということは、いつまで経っても「見果てぬ夢」である。「見果てぬ夢」を追い求めるうちに、いつのまにか自己は他者に統制されたり、あるいは「自分のほんとうにしたいこと」から疎外され、しぼんでいく。そんなときに、僕のゼミで、スクスク歩む「自律的」な仲間と出会うことは、一種の衝撃であるようだ。かつて、「僕は自分のことがわからなくなりました」と混乱したゼミ生もいたが、これは、統制・疎外された状態から、ほんまもんの「自律」に移行する「移行期混乱」なのかもしれない。
ただ、それに気づいても、変容は簡単ではない。
「変化への出発点は自分を受け入れ、自分の内的世界に関心をもつことである。たとえば、自分はなぜ食べ過ぎるのか、自分はなぜ妻に向かって怒鳴るのか、自分はなぜ子どもと一緒に時間を過ごさないのか、自分はなぜこれほどタバコに依存しているのか、などと考えることである。もともと、何年も、何十年も以前にその行動を獲得したのは、その行動が困難な状況に対処するための最良の方法であったからだと思われる。何かの行動をする理由をみつけるのは、出発点としては有益であるが、非難をする機会になってはならない。変化の過程は、人が非適応的な行動をする理由に気づくことで促進されると同様、その行動について自分自身や他者を非難することによって妨げられるのである。」(同上、p266-267)
僕自身も、以前はしばしば「食べ過ぎ」て今より10キロ以上太っていたから、よくわかる。『枠組み外しの旅』でも書いたが、その肥満化のプロセスは、何者でもなかった大学院生から、収入の乏しい非常勤講師を経て、大学教員として組織に順応するに至る、20代から30代中盤までの10年以上の間、自分のストレスという「困難な状況に対処するための最良の方法」であった。それは、自律的、というより、ある種の統制された状況であった。「枠組み外しの旅」を書くきっかけとなった東日本大震災後の混乱の中で、僕自身はある種の崩壊の危機にもいた。そして、「世間の目」に統制されり反発を覚えたり、そこで疎外されるよりは、「内的世界に関心」を持とうという追い詰められた動機によって、自分自身を呪縛する囚われから自由になるプロセスであった。
一方、ゼミ生達をみていると、その統制や反発、疎外に気づいているものの、「その行動について自分自身や他者を非難することによって妨げられる」状況に陥っている人も、いるような気がする。低い自己肯定感が前提となって、「そうなってしまうのは、私が悪いからだ」と決めつけてしまい、自分自身への非難を行う事で、悪循環に陥ってしまうのである。すると、支援する側に求められるのは、その悪循環構造からの離脱支援である。これは、言うは易く行うは難し、である。だが、同書の中には、そのヒントも載せられている。
「われわれのほんとうの仕事は、彼らが自分自身の意思で自主的に活動に取り組むよう促すことであり、それによって将来、われわれが側についていて援助の手をさしのべなくても、彼らが自由に活動できるようにすることである。」
(p124)
ここはすごく大切な部分である。支援をする両親や教師、管理職や支援者は、支援と支配を、時として無自覚に混同しやすい。自律を促すのではなく、統制の管理下におきたがる。そこに対して反抗をしてくる対象者には、より強い統制や圧制によって、無理矢理自分の支配下におこうとする。これは、自律の芽を摘む行為そのもの、である。
ほんまもんの自律支援とは、「彼らが自分自身の意思で自主的に活動に取り組むよう促すこと」である。今は支援の手がないとうまく立ち上がれないゼミ生達も、疎外や統制された状況でなければ、つまり「その行動について自分自身や他者を非難すること」のない、安心できる環境であれば、「非適応的な行動をする理由に気づくことで」、自分から変わる事が「促進」される。これはつまり、「将来、われわれが側についていて援助の手をさしのべなくても、彼らが自由に活動できるようにすること」に直結する。
この変化を、自律に向けた第一歩と喜べるか、自らの支配・統制下からの離脱と恐れるか? それは、実は支援をさしのべる側が支配者になっていないかどうか、の試金石でもあるのだ。
「真の自己は内発的自己から始まる。すなわちわれわれの生得的興味と潜在能力、そして新しく経験したことがらを統合しようとする、生命体としての傾向が出発点なのである。真の自己が洗練されていくにつれて、人はより大きな責任感を発展させていく。自律、有能さ、関係性に対する欲求から始まって、人は、他者に何かをしてあげようとする意欲や、何かが必要とされているかに応じて行動しようとする意欲を発達させる。こうした価値や行動を統合することによって、より責任感を強め、同時に、個人的自由の感覚をも保ち続けることができるのである。」(p155-156)
時に自己評価の低い学生と出会うこともある。その際、教師タケバタに求められているのは、彼ら彼女らの「内発的自己」を信じて、それが促進するのを励まし、その芽がスクスクと伸びるのを応援することである。自分の「統制」に応じた時だけ評価する「愛情留保的アプローチ」(p156)ではなく、「個人的自由の感覚をも保ち続ける」ことができるように、応援しつづけることなのかもしれない。それが、統制や疎外、反発などで、低い自己評価状態という悪循環に陥っている学生たちが、その悪循環から脱出する一つのきっかけになるのかも、しれない。
そう思えば、このゼミ生とのやりとりは、僕に実に多くの何かを気づかせてもらえる大切な機会であり、そのゼミ生の自律性が深まることを通じて、僕自身の自由や自発性が促進される、という意味で、相互エンパワーメントの世界なのだな、と実感した。そんな飲み会であった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。