内省的・生成的対話に向けて

 

最近、「対話」的環境について考えていたら、良い本に出会った。

「私たちは、すべてのステークホルダーの人間性と自分自身の人間性に目を向け、耳を傾け、心を開き、受け入れない限り、人間の複雑な問題に対する創造的な解決策を生み出すことは出来ません。創造性を発揮するには、私たちの自己のすべてを必要とします。」(アダム・カヘン『手ごわい問題は、対話で解決する』ヒューマンバリュー、p136

本のキャッチコピーに書いてあるとおり、著者カヘン氏は「アパルトヘイトを解決に導いたファシリテーター」である。そのカヘン氏が、数多くのファシリテーションの成功と失敗を眺めながら、最終的にうまくいくかどうか、は、互いが囚われから「オープンネス」になって、相手の話を「聴くこと」。自分の本当の想いや願い、本音を率直に「話すこと」。それに基づいて、参加者が内省}(reflection)の中から自分自身の囚われに気づき、新たな考えや相手の意見も共感を持って受け容れること。その共通の土台の構築が、真の問題の解決であること、を伝えてくれている。

また、オットー・シャーマー氏による聴き方の4分類も興味深い。一つ目の「ダウンローディング」とは、「自分のストーリーを支持するようなストーリーだけを聞き流す」こと。二つ目の「ディベーティング」は、討論会や法廷のように「外側から」互いの話を聴く。この二つは、「既存の考えや現実をただ単に提示し、再生しているだけで、何も新しいものを生み出」さない、とした上で、次の2つの聴き方が大切という。それは、三つ目の「内省的な対話」であり、「自分自身の声を内省的に聴き、他の人の話を共感的に聴く」こと。四つ目は、「生成的な対話」であり、「自分や他の人の内側から聴くばかりでなく、『システム全体』から聴く」ということである。(同上、p138-139)

我が身に振り返って考えてみると、自分自身が余裕もなく器の小さい、偏見や先入観に固執している時には、確かに自分に都合の良い情報のみを収集する、という意味で、「ダウンローディング」そのものだった。これがアブナイのは、どの情報を入れても、「ほら、やっぱりその通り」という妄想の肥大化に直結する聴き方である、という点である。自らの枠組みの「怪しさ」「不安定さ」「偏狭さ」に疑いの余地を持たないが故に、全く非妥協的であり、文字通り「議論の余地がない」。そういう矮小さに満ち溢れていたら、やがて一人、二人と自分の周りから人が消えていくだけである。

次の「ディベーティング」に必死になる事も、片腹痛い話だが、よくわかる。特に、「僕の方を見てよ」という自己顕示欲が強くなった時、とにかく自分に振り向かせる為に、対話の場面で、「外側から」互いの話を聴き、自らのストーリーにくっつける為に、時には大げさに批判したり、無理矢理自分に引きつけた議論をする。ディベートと同じように結論は「私は正しい」と最初から決まっているのだから、その「正しさ」に合致させるように、説き伏せ、ねじ込み、否定する。こういう聴き方は、正直言って自分自身の内面の「フラジャイル」な感受性の豊かさのかなりの部分に蓋をしたり抑圧して、一面的な自己の強化にしか適していない。だが、その戦略が成功したら、ある程度の喝采を世間から浴び、それと同時に嫌悪感も植え付ける。個人的な好き嫌いはないが、勝間和代氏の言動に「ついていけない」と感じるのは、おそらく彼女が「ディベーティング」のプロとして世に出ているからなような気がする。

で、3つ目の「内省的対話」。これは、僕自身はこのブログを開設して5年が過ぎたが、ある時期から意識し続けてきたことでもある。これは、僕がこの5年間で大きく影響を受けた内田樹氏の次の見方にもダイレクトに繋がっている。

「私たちは知性を計量するとき、その人の『真剣さ』や『情報量』や『現場経験』などというものを勘定には入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。」(「ためらいの倫理学」内田樹著、角川文庫)

「内省的」というのは、自分自身の限界にどれくらい自覚的であるか、という事に近いと思う。このブログでは繰り返し書いてきたのだが、「○○は悪い」「△△はダメだ」と批判する時、その批判をしている主体である己の「正しさ」の無謬性に無自覚である事が少なくない。You are wrong!の背後にあるI am right!の絶対性への問い。それが「自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか」につながる。そして、そういう疑いの眼差しを、他者への批判の時と同じくらいの熱心さで、自分自身にも向けることが出来る時、真に「知性的」である、という内田師の発言は、心から納得する。僕自身、このブログを書くという、ある種の自己治癒的な行為を通じて、自身の無謬性への自覚に至る流れに自覚的であったし、そのことに気づく中で、自分とは異なる立場の「他者」がなぜ、そのような発言をするか、その発言事態には否定的であっても、発言主体に対しては理解して、「そう言わざるを得ないのだなぁ」と共感的に聴けるようになってきた。

そして4つ目の「生成的な対話」。これは、自分自身がここ数年のチャレンジの中で、問われ続けている課題でもある。「自分や他の人の内側から聴くばかりでなく、『システム全体』から聴く」。このことは、本当に耳を澄ませないと、なかなか出来にくい。特定の個人であれば、仲良くなれば、先の「内省的な対話」は出来る。あるいは、ある著者との「対話」であっても、その著作をずっと読み続ける中で、「仮想的」であっても、自分自身が気づかされるという意味での「内省的対話」は出来ると思う。僕はそのことを村上春樹や池田晶子、内田樹といった「書き手」から沢山学んだ。だが、何らかの「渦」や「物語」を創り出そうとすると、個人の「内省的対話」では済まされない。まさしく「『システム全体』から聴く」ことが求められる。

山梨で障害者福祉に関する県の特別アドバイザーをして3年が立つ。その中で、ある時期から一貫して取りくみ続けたのが、「『システム全体』から聴く」ことであった。当事者、家族、支援者、市町村、県、民生委員様々なアクターの声を聴き続ける中で、個々のお立場やバイアスの限界が見え、それと同時に何となくの全体像というマッピングが、自分の中で、ボンヤリとではあるが、見えてきた。その時、時として個々のステークホルダーに反発されることがあっても、「『システム全体』から聴く」中で、必要と思われる事を選択し、取り組んできた局面もあった。なぜそう思うの、と聴かれて、理路整然とした一応の答えは準備していても、率直なところ「何となくそんな感じがするから」としか思えないで、判断した局面もあった。だが、それでもこけずに何とか展開してきたのは、多少なりとも僕自身が「『システム全体』から聴く」という姿勢を取ってきたから、のような気がする。これは、三重県の特別アドバイザーの仕事の展開でも、同様の事を感じる。

こう振り返ってみると、冒頭のカヘン氏の整理は、文字通り他人事ではなく、自分事として納得する整理だ。

「私たちは、すべてのステークホルダーの人間性と自分自身の人間性に目を向け、耳を傾け、心を開き、受け入れない限り、人間の複雑な問題に対する創造的な解決策を生み出すことは出来ません。」

そう、「耳を傾け、心を開き、受け入れ」るためには、相手と己の「人間性」に目を向ける必要がある。そして、その為にもまずは己の「人間性」のバイアスを、否定も肯定もせずに、あるがままとして認識する必要がある。そして、そのバイアスを強く意識した上で、相手のバイアスにも目を向け、それも否定せずに「あるがまま」として認識する。そうすると、思惑や立場の粉飾を取り払った、議論の流れや渦のようなものが微かにではあるが、感じられてくる。大切なのは、その渦や流れを見つけたら、躊躇せずに飛び込んで、波に乗る、ということなのだ。そういう意味でも、「創造性を発揮するには、私たちの自己のすべてを必要」というのにも、深く同意する。文字通り全身全霊をかけて自分自身を投げ込まないと、何らかの「創造性」には至らないのである。その際、自分の中での躊躇や蓋をした何か、が一番の足かせになることも少なくない。

「これらの事例に共通していたことは、自分の仕事のより大きな目的は何であったかを参加者が思い出し、さらに、なぜそれが個人、また全体にとって重要なのかを感じたり、思い出したりすることが出来たことです。そして、それは、彼らが共有するコミットメントの源となりました。困難な問題を解決するためには、共有化された新しい考え方以上のもの、共有化されたコミットメントが必要なのです。また、全体性に対する感性やそれが私たちに何を求めているのかを感じる力を磨く必要もあります。」(同上、p156-157)

問題が困難である場合、目の前の困難性にのみ目が行き、その中で己の立場の正当性と相手の不当性についての互いの議論の応酬でおわる場合が少なくない。だが、現実は、誰かが一つの絶対的正解をもっている訳ではないからこそ、解決が困難なのだ。であれば、参加者に共通する「より大きな目的は何であったか」という一歩引いた俯瞰的な視点に立ち、その俯瞰的視点から、己のすべき「コミットメント」とは何か、を気づく事が、事態打開の「渦」のコアになる。その「共有化されたコミットメント」という名の「渦」さえ出来てしまえば、あとはその「渦」の流れに耳を澄ませ、感じる力を磨く中で、その「渦」が自生し、育まれていく。時にはバックラッシュ的揺り戻しがあっても、「全体性」という名の「渦」を信じて、その流れに棹せずに載っていけば、きっと「より大きな目的」にたどり着ける。その方法論は当初予期した内容とは違っても、「渦」の共有があれば、そこから何かが創発される。そう感じている。

この渦作りは、市町村や都道府県レベルであっても、安易ではない。ましてや、国レベルに置いて、をや。介護保険制度や障害者自立支援法など、高齢者・障害者システムは、今多いに揺れている。ただ、多くの論者が疲弊的現実を前にして、「より大きな目的」を忘れてはいないか、が気になる。その上で、自身のパースペクティブを絶対化する「ダウンローディング」や、乱暴な正当化の為の「ディベーティング」に終始してはいないか、が気になる。方法論的差異を闘うより、大切なのは「より大きな目的」を実現する為の手段を構築するために、「共有化されたコミットメント」をどう生み出すか、という「内省的な対話」である。そして、それに基づいて、どういう苦しい局面でも、新たな方法論を産み出す為に連携する「生成的対話」である。この何かが生まれる「渦」にちゃんと「波乗り」出来るか、が、「手ごわい問題」を「解決」できるかどうか、に、大きく結びついている。そんなことを学んだ一冊であった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。