身体を通じたメッセージ

久しぶりに朝、6時前に目覚めてブログを書こうとしている。ずいぶん久しぶりのことだ。

2012年から2013年にかけて、二冊の単著を一気に出すため、毎朝5時起きで、原稿を書き続けていた。あのときは、ぱっきりと目覚めることが出来、どちらも夏休みで初稿を終え、秋口には本を出していた。どちらも春から書き始めたので、今から言えば驚異的なスピードだ。まあ、ある程度の下原稿も出来ていたし、コンセプトが定まっていた、というのもある。そして、去年の2014年は一冊の編著をまとめ、国際学会のフルペーパー一本、国内学会でも求められていないのにフルペーパーを二本、書いていた。とにかく、ずーっと何かを書き続けていた気がする。
で、気がつけば、身体はクタクタになり、エネルギーが消耗していた。
5年ほど前から須玉の中田医院という中国医学の先生に主治医になって頂いている。先生の所に通う中で、いろいろな根本治療をして頂き、花粉症もきつい薬からおさらばできたし、体調も全体的に良くなっている、はずだった。だけど、冷えがしつこく残る。その話をしているとき、先生にふと言われた。
「40のあなたが、身体が冷えるなんて、本来はオカシイ。身体が冷えていく、とは、死に向かって進んでいる、ということだ」
どきり、とする表現だ。でも、言われてみれば、その通りである。しばしば、ストレスはありませんか?と聴かれる。僕自身は、愉快に働いているつもり、だし、職場環境にも恵まれているし、最近やっとアウトプットも出来るようになってきたし、ルンルンしているつもりである。そりゃあ生きていれば人並みに腹の立つことや業務集中もあり、ぐったりする事もあるが、それでも愉快に生きてきたつもりだ。それでも喉がつかえたり、痰が絡んだり、眠りが浅い、早朝覚醒など、挙げてみたら確かに色々なストレスの症状が出ている。それって一体何だろう、と思いながら、ふと手に取ったある本に、そのことがずばりと指摘されていた。
「エッジは、プロセスを、クライアントが同一化している一次プロセスと、彼が直接に関わっていないと感じている二次プロセスとに分裂させる。エッジは個人を、自己一致させることもあるし、自己不一致の状態や、分裂させたりもする。例えば、視覚タイプの人は、自分の身体の感じとは同一化しないかもしれない。このため彼は腹痛にみまわれても、それが耐え難くなるほどひどくなるまで認めようとしなかったりする。彼は自分の身体など大事じゃないとか、身体を感じ取ることができないと言ったりする。そのため身体感覚を分裂させるエッジが生じ、自分の身にふりかかった二次的現象として現れるのである。自分が好きで自覚しているプロセス、すなわち視覚と、もうひとつの嫌いな腹痛というふたつのプロセスを体験し続ける限り、彼は自己不一致の状態になってしまう。長期にわたって存在し続けるエッジは、ブロックとなり、心身相関的な問題と関わってくる。なぜなら、意識的にキャッチされない情報は、常に別ルートで身体をめぐるからである。」(アーノルド・ミンデル『プロセス指向心理学』春秋社、p57)
これは、小さい頃からの「ひろしくん」そのもの、である。
ひろしくんは、小さい頃から絵本が好きで、その後は本をよく読むタイプの子どもだった。また、ドラマや小説など、その世界に入り込んでしまうという意味でも「視覚」タイプの子どもであった。一方、昔からよく腹を下し、正露丸を欠かせないように飲んでいた。休日前、腹を下してしんどくなっても、予定通り遊びにつれていってもらいたくて、「耐え難くなるほどひどくなるまで認めようとしなかった」こともある。大人になって、暴飲暴食が減ってくると、腹痛は今度は冷えに変わった。この冷えだって、中田医院に通うようになるまでは、「耐え難くなるほどひどくなるまで認めようとしなかった」点で同じである。そういう意味で、書いたり読んだり、という「視覚」チャンネルの世界には自己一致させているけれど、身体感覚とは「自己不一致」そのものであり、「分裂」状態であった。「身体の声」に耳を傾けず、「ブロック」として、身体症状をどんどん悪化させていった。「意識的にキャッチされない情報は、常に別ルートで身体をめぐる」事態そのもの、だったからである。「死に向かって歩みをすすめる」ほど足を冷やしてまで、警告しているのである。
ミンデルの本は、1年ほど前から、『ディープ・デモクラシー』『ワールド・ワーク』などの集団プロセスの変容支援の本を中心に、読み続けてきた。でも、それが僕自身の問題だ、とアクチュアルに突き刺さる感覚はなかった。だが、連休後にこの本を読みながら、他者や集団のプロセスの問題を考える前に、まず自分自身のプロセスと向き合う必要がある、という当たり前のことに、気づき始めた。特にこの数年意識している「足の冷え」。これは、単に身体が冷えているだけではない。自覚化出来ていないストレスが溜まったり、緊張したり、身体がへとへとになったり、という「身体自身の自己主張」に、僕が耳を傾けようとしないまま放置したとき、エッジとして、つまり「身体の声の代表選手」として、猛烈に「抗議」しておられるのである。それを、僕はこれまで「足にはるカイロ」や「登山用靴下」で、冬場は誤魔化してきた。でも、それ自体がそもそも、「何とかしろよ」という抗議の内容に耳を傾けることなく、抗議の声を押さえ込むために、「まあまあ、今日はこれでお引き取り下さい」となだめすかし、騙して、沈静化させていた。エッジを「意識的にキャッチ」しようとしないから、「心身相関的な問題」は最大化しつつあるのではないか、という仮説を抱くようになった。
そして、ここ数週間、少しずつ、身体の声を自覚的に聴こうとしている。すると、今まで聴けなかった声が、色々聞こえてくる。
ぐったりしている、身体がだるい、ゆっくり眠りたい、熟眠感がない・・・
つまり、休日を作り、何もしない日を増やして、心身をのんびりさせなさい、という、月並みだけれど、大事なメッセージである。休日も出張続きで、出張がないと山登りに出かけたり、という、ずっとギアを入れっぱなしの生活に、区切りをつけて、身体のメンテナンスをしてほしい、という声である。そういえば、家のソファーに座ってのんびりすることもなく、ちょこまか動き続けてきた。朝から原稿も書き続けてきた。認めたくないが、「ワーカホリック」そのものである。では、どうすればよいのか。
「プロセス指向心理学者は、身体的問題が、身体化されたメッセージを知らせてくれるエネルギーの発端になることを発見する。いいかえるなら、身体は必ずしも克服すべき病理的問題であふれているのではなく、とぐろを蒔いている、開発すべき潜在的エネルギーの源泉からのメッセージに満たされているのである。」(同上、p150-151)
ほほう。「冷え」は「克服すべき病理的問題」ではなく、「開発すべき潜在的エネルギーの源泉からのメッセージ」なのか。そう思うと、いろいろ合点がいく。これまで「冷え」を無視してきたのは、自分が「病理的問題」に蝕まれている、という事を認めたくなかったからである。でも、「病理」ではなく、、「開発すべき潜在的エネルギーの源泉からのメッセージ」であれば、話は全く別である。色々な部分で根詰まりや不全感を抱えている、40歳で前厄のひろしくん。ここでは、エッジとして表面化しいてる「冷え」の声を聴くことで、「開発すべき潜在的エネルギーの源泉からのメッセージ」を探り当てる事が出来るかも知れない。すると、「ワーカホリック」ではななく、まずはゆっくり休んで、身体の声に自覚的になるところから、スタートしなければならない。
そう気付いて、5時頃に早朝覚醒しても、二度寝してみることにした。休みの日も予定を詰め込まず、数日間の出張を減らしてみた。劇的な変化はない。微弱な声を聴くのは簡単ではない。でも、ちょっとずつ、何かが変わり始めている感覚がある。視覚タイプの僕は、この変容プロセス自体を書いておかないと、きっと身体の声をまた無視して、暴走して、エッジを最大化させることになるだろう。昨日もお休みを頂き、この週末で「1Q84」も再読してすっかりリフレッシュ出来たので、備忘録的に視覚に刻み込ませるために、「身体の声をきけ」と、ここに書き付けておく。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。