先週末、香港に出かけてきた。The Asian Progressive Social Work Forum 2015に参加しにでかけた。
この集会には、以前著作を読んで感動したイアン・ファーガソンさんの基調講演も含まれていた。かつ、ファーガソンさんと個人的に親しくされている日本福祉大学の伊藤文人先生から、「香港や台湾の進歩的なソーシャルワーカーの集まる熱い集会ですよ」と直々にお誘い頂いた。「これは、何だか面白そうだ!」 その直観だけを頼りに、蒸し暑い香港に出かけてみた。そして、その予想を遙かに超える収穫があった。
今回の集会は、香港とマカオ、台湾、そして中国本土のソーシャルワーカーや、社会福祉の研究者の集まりである。学会とは違い、現場のワーカーが中心の集まりなので、主要言語は英語ではない。広東語と北京語が主要言語で、ファーガソンさんや私たちとのやりとりだけが英語、という、大中華圏の集会。そのアウェー感に、当初はたじろいだ。ただ、香港理工大学の学生さんや教員が、無料で通訳をしてくださったので、何とか話についていけた。聴いている内に、議論の内容の少なからぬ部分が、雨傘革命やひまわり学生運動などの社会運動と、ソーシャルワークの関係性を問い直そうとしている。そう、日本では既に絶滅危惧種になりかけている「ソーシャルアクション」が、この会議のメインテーマである、と出かけてみて、ひしひしわかった。いくつか面白いトピックを、備忘録的に書き付けておく。
今回一番印象的だったのは、台湾の社会福祉専攻の修士の学生で「翻轉社工學生聯盟」のメンバー黄さんによる「從社工學生出走潮」という発表だった。通訳とパワポスライドを合わせると、だいたい次の様な事を言っておられた(と思う)。
台湾では、中国との「サービス貿易協定」締結に反対する学生達による社会運動が、昨年の春に起こった。学生達に共感する市民がひまわりを持って応援に駆けつけたことから「ひまわり運動」とも呼ばれている。この運動に参加した社会福祉系の学生(社工学生)さんたちは、運動終了後、自分達が受けているソーシャルワーク教育にも、疑いの眼差しを持ち始めた。授業で教員から学ぶ理論と、現場実習で先輩ワーカーから学ぶ実践の乖離が凄く大きい。また、社会福祉の現場は、労働環境も悪かったり、管理主義が強まったりで、燃え尽きたり離職する福祉職も少なくない。そういう実態と理論の乖離を目の当たりにした学生達は、運動にコミットする以前には、矛盾や衝突を、「どうせ」「しかたない」と諦めていた。
だが、ひまわり運動に関わった後の学生達は、自分達の目の前の実態の衝突や矛盾と、向き合い始め、自主的な学習会を組織した。それが、この連盟である。この「翻轉」とは、「ひっくり返し」の意味であり、学生の側から、社会福祉教育の矛盾や構造的問題点を問い直す、という非常に面白い試みである。その中で、一体何のためにソーシャルワークを行うのか、社会福祉は誰のためになっているのか、を構造から問い直し始めている。教師が教える「価値中立」を鵜呑みにするあまりに、社会的矛盾が起こる抑圧的構造そのものを哲学的に問い直す視点がないのではないか、と気づき始めている。そして、様々な社会運動や地域活動と連体しながら、学生たちも共に学び、変わる運動にコミットし始めているのだ。
だが、ひまわり運動に関わった後の学生達は、自分達の目の前の実態の衝突や矛盾と、向き合い始め、自主的な学習会を組織した。それが、この連盟である。この「翻轉」とは、「ひっくり返し」の意味であり、学生の側から、社会福祉教育の矛盾や構造的問題点を問い直す、という非常に面白い試みである。その中で、一体何のためにソーシャルワークを行うのか、社会福祉は誰のためになっているのか、を構造から問い直し始めている。教師が教える「価値中立」を鵜呑みにするあまりに、社会的矛盾が起こる抑圧的構造そのものを哲学的に問い直す視点がないのではないか、と気づき始めている。そして、様々な社会運動や地域活動と連体しながら、学生たちも共に学び、変わる運動にコミットし始めているのだ。
それを聴いていて、ファーガソンさんが基調講演の中で言及していた、パウロ・フレイレの批判的意識化概念を、強く思い出していた。
「批判的に思考すること。それは、世界と人間を対立するものとしてとらえる発想を認めず、世界と人間のわかちがたい共生について考えていくことだと思う。具体的にいうと、それは、現実に起こっていることを、固定されたものとしてとらえるのではなく、プロセスとしてとらえ、常に生成されていくものとしてとらえるということでもある。自らを常に動的な状態に置き、危険はあっても怖れることなく、今この時に『浸る』ということである。」(パウロ・フレイレ『新訳 被抑圧者の教育学』亜紀書房、p129)
社会福祉の理論では、価値中立やケアマネジメントの重要性が指摘されている。そして、価値中立と言うことによって、抑圧者の価値観にも被抑圧者の価値観にも、どちらにもコミットしない、ということになりがちだ。また、ケアマネジメントは、本人が望むサービスをいかに効率的に提供するか、が原義のはずだが、いつの間にか支給額上限が決まっている中でサービスの給付管理をする、というマネジドケアに意味にすり替わっている。つまり、そのどちらも、「現実に起こっていることを、固定されたものとしてとらえる」罠に陥っている。そしてそれが罠なのは、現実を「固定」化するとは、つまり社会の抑圧構造を「固定化」することに結果的に荷担している、ということでもあるからだ。
ここ罠から抜け出すためには、「問題行動をする人」「依存症状態の人」を「その人が問題」と「固定」して捉えず、その人がそのような問題状況に陥るのを「プロセスとしてとらえ、常に生成されていくものとしてとらえる」必要がある。すると、そういう問題状況が作られる中で、社会の抑圧的状況も見えてくる。新自由主義や社会的抑圧をアイデンティティの問題に矮小化したポストモダンの問題も、同時に考慮し直す必要があるだろう。つまり、個人的な不幸や悲劇の問題とされていたものが、社会的抑圧や差別の問題とリンクしてくる。これは、「世界と人間のわかちがたい共生について考えていく」際に必要不可欠なことだ。
そして、台湾のムーブメントで興味深いのは、学生や若手ソーシャルワーカーといった、20代~30代の若者達が、文字通り「自らを常に動的な状態に置き、危険はあっても怖れることなく、今この時に『浸る』」実践をしていた。これは、マカオでも同様で、家庭内暴力への対策法制定が否決されようとした事に反対するソーシャルアクションを語るのは、20代後半のワーカー達だった。香港で雨傘革命をサポートしたソーシャルワーカーにも共通することだが、「お上」の定めたことを「どうせ」「しかたない」と「固定化」されたものとして捉えず、「動的な状態」にあることを「怖れることなく」、何が問題で何が課題になっているのか、その背後にはどのような文化的・社会的背景があるのか、を分析し、そこから全体像を掴もうと「今この時に『浸る』」取り組みをしていた。
この批判的認識が、1970年代に勃興し、80年代のサッチャーやレーガン政権以後、全世界的に勢いを失っていった、ラディカル・ソーシャルワークそのものの核心にあるもの、である。つまり、マカオや香港、台湾のソーシャルワーカー達は、期せずして、ほぼ同じ時期に、ラディカルソーシャルワークにコミットし始めているのである。
ここで、以前のブログでも引用した、ファーガソンさんによるラディカルソーシャルワークの位置づけを、もう一度振り返って見よう。
ここで、以前のブログでも引用した、ファーガソンさんによるラディカルソーシャルワークの位置づけを、もう一度振り返って見よう。
①中核的な思想として、「抑圧された立場にある人々を、彼ら・彼女らの生活の社会的・経済的構造の背景から理解する」という特有の信念がある。
②ワーカーとクライエントの間のより対等な関係への要求である。
③主流のソーシャルワークにおいて留意されることが次第に少なくなっていった集団的アプローチの重視である。
(イアン・ファーガソン著『ソーシャルワークの復権』クリエイツかもがわ、p181)
これは、僕がこの二日間で聴いていた、香港や台湾、マカオの実践者達が口々に語っている内容をまとめたものと、全く一致している。①抑圧された立場にある人々の問題を、「個人的悲劇」と片付けず、社会経済の構造の矛盾から生まれたものと捉え、その背景を理解しようとしている。②そして、「価値中立」を気張ってお高くとまらず、利用者が何を求めているのか・困っているのか、という立ち位置に立ち、利用者と「対等な関係」を築こうとする。さらには、①や②を実現する為に、グループワークやコミュニティワークなど、「集団的アプローチ」を重視する。問題によっては、ソーシャルアクションや社会運動へのコミットもいとわない。こういう共通点がある、と感じた。
さらにいうと、これは「何に対するソーシャルアクションか?」という問いをいれると、もう一段、深く問い直すことが出来る。この大会で、発表者の口から意識的に発言されていなかったのだと思うが、話をつなぎ合わせて聞けば、中国共産党の抑圧的な支配に対する異議申し立て、という側面が強いと感じた。その中で、香港に旅立つ前に読んでいたある本のフレーズが、強烈によみがえってきた。
「『強権と言論弾圧による一党支配体制から腐敗は生まれているので、それをなくさない限り腐敗撲滅はできない』ことと、『言論弾圧をやめたら中国共産党の一党支配体制は崩壊する』という自己矛盾を中国は抱えている」(遠藤誉「雨傘革命が突きつけたもの」『香港バリケード』明石書店、p146)
ソーシャルワーカーが見聞きする現実、社会的弱者が遭遇する現実とは、社会的矛盾が集中している現実である。そして、香港やマカオは、一国二制度から中国化しつつある中で、中国共産党による強健や言論弾圧が強まっているし、そう両市民は感じている。
その際、ソーシャルワーカーは、誰のための、何のための専門家か、が強く問われている。
中国本土では急激な高齢化に伴い、ソーシャルワーカーをこの数年間で何十万人という単位で促成栽培しようとしている、と別の報告者は言っていた。だが、この時に共産党政府が育てようとしているワーカーとは、行政の末端で、行政の言うことを聴いて、社会福祉の対象者に適切なサービスを提供する支援をする「だけ」の職員である。だから、高い専門性は必要とされず、促成栽培が可能だ、と踏んでいる。
だが、本来のソーシャルワーカーとは、政府とは一線を画した存在だ。たとえ政府に雇われたワーカーであっても、専門職としての倫理や価値観を持っているし、それが尊重されなければならない。医師や弁護士が、判断や実践に自律性を持っているし、それが法的に担保されているように、本来はソーシャルワーカーの判断や実践にも自律性が担保される必要がある。
とはいえ、そのワーカーの自律性は、社会的弱者の声に結びつき、その抑圧された声の代弁に結びついた時、抑圧する側の「強権や言論弾圧」への批判に、自ずと結びつきやすい。社会的問題を現行制度の範囲内で解決する専門家を必要としているのであって、社会問題が生じる現行制度の矛盾を突きつける存在であっては、困るのだ。だからこそ、ソーシャルワーカーに自発性を持たせてはならず、あまり深く勉強されては困る。これが、促成栽培の理由である。
そして、ここまで書いてくると悲しいかな、日本のソーシャルワークの現実だって、結果的に同じ部分はないか、という問いも生まれる。「抑圧された声」に本気で向き合うなら、その抑圧を産み出す組織的・社会的課題への問い直し、が必要とされる。だが日本のソーシャルワークの職能団体は、この部分にきっちりと目を向けているか? それより、厚労省との良好な関係の保持にのみ、汲々としてはいないか? 日本は、政府や党による「強健や言論弾圧」ではなく、職能団体自身がそれらに自発的隷属をしている、とは言えないだろうか? その上で、「現実に起こっていることを、固定されたものとしてとらえ」、自らが社会福祉の閉塞状況を作り出す一因になってはいないだろうか?
そう考えてみると、地域福祉やソーシャルアクションに関心のある人々にとって、香港やマカオ、香港の実践から学ぶべき点は沢山ある。それらの地域は、中国共産党の中心から遠い「周辺地域」だ。しかも前者は一国二制度で、後者も別の国家形態を取っていて、本土と比べたら「言論弾圧」はされていない。だからこそ、こういう事をきちんと主張出来る。しかし、共産党政権が今の矛盾を抱え続ける限り、「強権や言論弾圧」は波状攻撃のように訪れる。だからこそ、3地域のソーシャルワーカーは、現実を「プロセスとしてとらえ、常に生成されていくものとしてとらえ」ることで、周辺からの変革にコミットしている、と言えるのかも知れない。
ちなみに、今回は中国本土からの発表者は、事柄が事柄だけあって、何人かは発表を諦めたそうだ。だが、参加者の中には中国本土のソーシャルワーカーや、その教育を受けている学生が沢山いて、活発な議論を交わしていた。周辺ほど自由ではないが、それでも周辺革命の自由に触れ、中国本土のワーカー達もずいぶん刺激を受けたようだ。これは、自発的隷属をしている日本からの参加者にも、同様だった。
香港や台湾、マカオなど東アジア地域の進歩的なソーシャルワーク実践から学べることは、凄く沢山ある。それを深く認識した二日間だった。
最後に、進歩的なソーシャルワーク実践と雨傘革命の関係性を、もう一点だけ触れておきたい。先の革命を側面的にサポートした立法院の委員で、「香港のゲバラ」と言われている長毛に、安冨歩先生はインタビューしている。その記録の中で、次の様なフレーズが出てきた。
「占拠は人々の自発的な活動の集積として形成されたが、同時に、その限界も示された。完全に個々人が自発的に動くだけでは、人々が求めていることは実現出来ない。今後は、組織性を高めねばならない。もちろん、武力を使って闘争する条件はないので、平和的で直接的な方法で闘争するべきであるが、もっと集結された行動を考えるべきだ。ストライキとか、ボイコットとか。街角の闘争と職場なりの闘争とが連結せねばならない。」(『香港バリケード』p214-5)
これは、ラディカルソーシャルワークの復権の必要性を説くファーガソンの3つの整理と見事に一致している。①抑圧された市民の「生活の社会的・経済的構造の背景から理解する」中で、強権や言論弾圧などの、さまざまな矛盾の背後にあるパワーが見えてくる。これを、②運動の参加者達が「対等」に分かち合う必要がある。さらには、その個々人が「対等」に「関わり合う」ために、ファシリテーター的な存在が、「集団的アプローチ」の形成を支援することによって、「組織性を高め」ることが可能になる。「個々人の自発的な動き」を、「集団的アプローチ」にどう編み直すのか、が問われている。
そしてこの点では、官邸前で行われている反原発運動のデモに対する、安冨先生の危惧と、同じ思いを持つ。
「参加している人々の間でコミュニケーションが発生すれば、この運動はもっと広がっていくだろうけれど、そうでなければ、力を持てないのではないか」
運動に参加している人々の間で、対等な立場でコミュニケーションが発生しない。これが、21世紀の日本の現実である。ここには、かつての社会運動の少なからぬ部分が背負っていた、上意下達的なものへの反発もある。一部のリーダーが専制的に決めて、それを黙って従う、という形に対する、団塊ジュニア以下の世代の無意識的な反発でもある。それは、中国共産党の「強権」と同じではないか、と。
だが、だからといって、運動に参加しいている個々人が、お互いに対等な立ち位置で思いをぶつけ合う事が出来ないとしたら、運動の力が十分に発揮されない。安冨先生はガンディーを引用しながら、「非暴力的抵抗」の精神を説いている。そして、「非暴力的抵抗」のためには、「集団的アプローチ」が必要不可欠であり、そのためのヒントが、ラディカルソーシャルワークの実践の中に詰まっている。そう思うと、改めて、21世紀の日本でも、ラディカルソーシャルワークの可能性は、「再発見」されてもよい、と強く感じた。そして、そういう日本に住む私たちは、香港や台湾、マカオなどのアジアでの「非暴力的抵抗」の実践から、もっと沢山のことを学べるのではないか、と感じた週末でもあった。