もとい、今日も今日とて流浪の民、である。今日も京都からの帰り道。しかも、今週も学会からの帰り道。
今日は立命館大学で開かれていた、日本NPO学会で大会発表してみた。この学会の理事で大会校の幹事であるサクライくんは、大学時代のボランティア仲間。そのボランティア団体で、彼は集団を統括するマネジメント、僕は渉外的な仕事をしながら共同代表的なポジションにいた。15年後の今、彼はボランティア論で単著も出す立派な研究者になっている。片や僕は、相変わらず渉外?的に、学会的にも研究的にもディシプリンも定まらず、うろうろ動き回る日々。敢えて言えば、お互い「らしいね」となるような気もする。
そんな彼とも再会したり、大学院時代の後輩や知り合いにも出会えたり、だけでなく、この学会の僕のフロアは、なかなか面白い発表の場だった。アドボカシーという共通の切り口はあるものの、テーマはソーシャルメディア、河川環境、国際協力NGO、そして精神医療オンブズマン制度、と実に多様。切り口も異なる。そんな多種多彩な場であったが、討論者と司会者の二人の先生による各人への切り口がなかなか鮮やかで、僕自身も様々な事を学ばされる。
特に、切れ味鋭い討論者のK先生が「面白かったよ」と終わった後で仰ってくださり、嬉しくもビックリ。これまでの僕の学会発表の中でも、精神医療分野のNPOに関する内容の時はしばしば、読者フレンドリーではないこと?も影響し、あまり関心も寄せられない、ひどい時には誰からも質問されない事があった。今回も会場からの質問は無かったけれど、討論者からの質問はどれも発表内容の穴を付いてくださるだけでなく、内容をしっかり理解された上での、改善点に直結するご指摘。こういう鋭い質問を受けた事が久しぶりで、一匹狼としては、京都まで来た甲斐があったなぁ、とほっこりする。今回はフルペーパーを準備する中で、コンテキストが異なる読者にも理解される様な努力はしたつもりだったが、こうして届いて欲しい方に届くことほど、喜ばしいことはない。
で、先述のサクライくんには、「昨日の懇親会は凄く評判がよかったよ」と言われ、この学会なら出てもよかったかなぁ、とちょっぴり思ったのだが、実は昨日は別の「懇親会」に出ていた。しかも、京都ではなく、福島で。
昨日は福島県の自立支援協議会の人材育成部会主催の研修会に呼ばれて、郡山に出かけていた。1月にDPIのタウンミーティングでお世話になった際、「ジャパネット」さん、と命名され、その早口が聞きたい、とまた呼ばれたのだ。確かに早口で興奮すると、オクターブがあがり、例の「さらにぃ、みなさーん!」のキンキン声になる。だが、これまで皆さん遠慮して、そう思っても言わなかったのだが、ユーモアあふれるミヤシタさんから命名されて気づく。以来、講演の際の「つかみ」で使わせて頂いているが、笑いがとれて、大変よろしいのです。
で、昨日わざわざ京都の学会を一日サボってまで郡山に出かけたのは、こういうオモロイ現場の人との懇親会の場は、多くの学びの場でもあるから。昨日も、一次会、二次会とインフォーマルな場でのオシャベリの中で、福島でどんな風に相談支援のネットワークを構築して来たのか、の裏話を色々伺う。で、このネットワークって、今日の学会発表で河川環境に関する市民ネットワークについて発表されていた、東工大の飯塚さんによる「キーパーソン連結型」そのものだよな、とも振り返ってみて整理出来る。
この飯塚さんの整理は、市民団体の連携の形の多くが、各市民団体のキーパーソンによる連携である、と、多摩川流域の事例研究から整理しておられたが、福祉分野の連携がまともに機能する場合も、確かに各団体のキーパーソンがつながっている事が、コアな連携になっている。昨日の福島では、スズキさんとミヤシタさんというキーパーソンの二人の飲み会が、昨日の一次会に集まった10数人を初めとした障害者福祉のネットワークの原点にあった、とお二人から伺った。このコアメンバーによる結びつきは、確かに障害の分野においても、確実にネットワークを広げていく。ただ、この「キーパーソン連結型」の連携の危うさは、そのキーパーソンが居なくなればオシマイの壁、がある点であろう。
この「○○さんが居なくなればオシマイの壁」というのは、何もNPOに限った訳ではない。私が大学院生の時からずっと追いかけているソーシャルワーカーの世界だって、一人職だったり、あるいは複数配置された現場でも、ある人に高い力量があったりすると、生じやすい問題である。カリスマワーカーと呼ばれ、地域のある種の顔役にもなって、どんな問題でも解決に導く職人としての力を持っているワーカーが、いろんな現場にいる。そういう人って、頼りがいがあるのだけれど、その人「しか」いないと、その人がいなくなれば、その地域の福祉レベルは急にガクッと下がってしまう。本来福祉のシステムとして検討すべき課題が、属人的な機能・要素に還元されてしまう脆弱性や危うさを、僕自身は問題意識として感じていた。そして、その危うさは、次の一文へとつながる。
「日本では、『お伺いをたてる』という卑屈な役割関係を踏まなければ生きていきにくい医療との関係を呪う人もいれば、逆にその支配力に依存し保護される事を求め続ける人もいる」(山本深雪「『心の病』とノーマライゼーション」ノーマライゼーション研究1993年年報:103)
「○○さんが居なくなればオシマイ」という状態に、特に権力の非対称性が指摘される精神医療分野でおかれてしまうと、それは容易に「オシマイ」にならないための「お伺い」という戦略が創出する余地を残す。精神障害を持つ人のこの「お伺いを立てる」という論理のハラスメント性と、にもかかわらず、その論理の中に絡め取られてしまう実態を鮮やかに説き起こす山本深雪さんの文章は、17年前に書かれたと思えないほど、残念ながら現在性を持ってしまっている。病院内にあっては、文字通り「その支配力に依存し保護される事を求め続ける」中での長期入院の選択、院外にあっては、「『お伺いをたてる』という卑屈な役割関係」に関する葛藤、その中での、専門職による「○○さんが居なくなればオシマイ」という状況構築の危険性と、権力性の保持。こういった問題は、決して過去物語になっていない。そういう状況をどう超えられるのか、も、今回発表したアドボカシー課題と直結しているし、郡山でも議論された相談支援の今日的課題でもある。
まだ、きちんと整理出来ていないが、このあたりに次の研究課題をもらって、今日も甲府への旅路を急ぐのであった。