構造ではなく、構造化のダイナミクス

大学院の福祉社会学特論では、悪循環を乗り越えるためにはどうしたらよいか、を主旋律に、『悪循環の現象学』(長谷正人著、ハーベスト社)を読んだ後、深尾葉子先生の『黄砂の越境マネジメント』を読みすすめてきた(本の紹介は以前のブログに)。そして、12月23日(月)には、Zoomで著者の深尾先生と大学院生がダイアローグする機会を作った。非常に実りある対話の場だった。

この中で僕にとっても印象深い内容だったのが、構造と構造化を巡る議論であった。深尾先生の論考から、まずその違いに関する部分を抜き出しておこう。

「村において観察可能であったのは、村人同士が各々個別に展開する労働交換や情報の交換によって形成される『関係』のネットワークのみで、それは常に変化し、形を変えて存在し続ける。そこから抽出できるのは、構造そのものではなく、構造化のダイナミクスであり、動的なモデルであった。」(p291)
「人為的要因と自然的要因が複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象を理解するには、あらかじめ『フレーム』によって対象と『時間』を区切り、限定された因果関係で理解しようとする手法は、大きな齟齬をもたらす」(p294)

僕自身の反省を込めて書くのだが、僕自身、ある時点まで優れた研究とは何らかの構造を明らかにすることだ、と思い込んできた。博士論文で明らかにした社会変革を可能にするソーシャルワーカーの「5つのステップ」も、構造まではいかないけど、その種の法則的なものを明らかにした、つもりでいた。

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<精神障害者のノーマライゼーションを模索するPSWの五つのステップ>

ステップ1:本人の思いに、支援者が真摯に耳を傾ける
ステップ2:その想いや願いを「○○だから」と否定せず、それを実現するために、支援者自身が奔走しはじめる(支援者自身が変わる)
ステップ3:自分だけではうまくいかないから、地域の他の人々とつながりをもとめ、個人的ネットワークを作り始める
ステップ4:個々人の連携では解決しない、予算や制度化が必要な問題をクリアするために、個人間連携を組織間連携へと高めていく
ステップ5:その組織間連携の中から、当事者の想いや願いを一つ一つ実現し、当事者自身が役割も誇りも持った人間として生き生きとしてくる。(最終的に当事者が変わる)
(竹端寛 2003 「精神障害者のノーマライゼーションに果たす精神科ソーシャルワーカー(PSW)の役割と課題―京都府でのPSW実態調査を基にー」大阪大学大学院人間科学研究科博士論文)

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だが、僕の見つけた5つのステップも、深尾先生の議論に当てはめてみれば、「『関係』のネットワーク」を表現したものであり、「常に変化し、形を変えて存在し続ける」プロセスの記載であり、それは「動的なモデル」としての「構造化のダイナミクス」であった。で、構造のようながっちり固まったものではないがゆえに、このステップは、自画自賛じゃないけど、コミュニティワークの一つのプロセスとして、今でも使える何かが描かれていると思っている。

そういえば、博論を書いた後の2005年、ある福祉施設の職員間のコンフリクトを7つのポイントで整理したのだが、こないだ全く別の福祉施設の幹部職員がこの文章を読んで、以下のような感想を寄せてくれた。

「15年前の先生の論文を拝読し、まるで私たちの法人のことが書かれているのではないかという錯覚を覚えました。まさに職員の誰かが口にしそうな内容がたくさん記されていて、きっと、みんな同じように思っていることがあるのだろうなと、感じました。」

この感想を読んでいると、どうやら僕も頭では構造に憧れながら、実際に表現しているものは「構造化のダイナミクス」だった。だからこそ、なかなかこの種のものは査読論文には掲載できなかったのだけれど。

で、月曜日のダイアローグで特に僕が興味深かったのは、先に引用した「あらかじめ『フレーム』によって対象と『時間』を区切り、限定された因果関係で理解しようとする手法」という部分である。人間が関わる様々な事象は因果の連鎖で結びついているのに、その一部をフレーミングすることによって、「限定された因果関係」で「構造」を記述することの危険性について、深尾先生は指摘しておられる。この話を聞きながら、精神医療でも「病気」「症状」という形で専門職が判断することで、「生きる苦悩」という複雑な因果関係の連鎖の一部にフレーミングし、そこに投薬や隔離拘束で落ち着かせよう、という精神医療の治療「構造」が重視される。だが、その動的な現象を構造で理解すること自体が、時間と因果関係の限定性をもたらし、「人為的要因と自然的要因が複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象」としての、生きる苦悩の最大化としての精神症状という構造化のダイナミクスの理解には不適切なのではないか、と深尾先生におたずねしてみた。

すると深尾先生は、癌だって同じですよね、と応答する。癌が他ならぬその人に生じている、という複雑なダイナミクスを理解することなく、症状のみに着目して、それを消し去ろうとすることは、構造の理解と消去を目的にしているけど、その構造化のダイナミクスという因果の連鎖に着目しないから、それは近代的合理主義の範囲内の、切り分けた発想や視点になってしまうのではないか、とおっしゃった。

その話を聞きながら、僕はフランコ・バザーリアの発言を思い出していた。

「狂気とすべての病は、私たちの身体がもつ矛盾の表出です。身体といいましたが、それは器質的な肉体と社会的な身体のことです。病とはある社会的な脈絡のなかで生じる矛盾のことですが、それは単なる社会的な産物ではありません。そうではなくて、私たちを形作っている生物学的なもの社会的なもの心理的なものといった、あらゆるレベルの構成要素の相互作用の産物でもあるのです。(略)たとえば癌は歴史的・社会的な産物です。なぜなら癌は、この環境において、この社会のなかで、この歴史的な瞬間に生み出されていて、また生態学的な変化の産物でもあり、つまりは矛盾の産物だからです。」(『バザーリア講演録 自由こそ治療だ』岩波書店 p108)

癌も精神病も、「私たちの身体がもつ矛盾の表出」であり、「ある社会的な脈絡のなかで生じる矛盾」である。ストレスフルなライフイベントが続くなかで、社会的なつながりが断たれ・閉ざされるなかで、リラックスできる余裕が失われるなかで、失業や別離など大きな喪失があるなかで、生きる苦悩が最大化するプロセスのなかで、癌や脳卒中、心筋梗塞、糖尿病、精神疾患などの「五大疾病」に陥る。この五大疾病は、もちろん医学的に治療の対象となるのだが、「いま・ここ」で他ならぬその人が罹患している、という意味では、「この環境において、この社会のなかで、この歴史的な瞬間に生み出されていて、また生態学的な変化の産物でもあり、つまりは矛盾の産物」なのである。その「矛盾の産物」という複雑なダイナミクス=因果の連鎖を、そのものとして理解しようとせず、投薬や外科的手術のみですべてを解決することは、原理的に不可能なのである。

癌や精神疾患という、顕在化した「疾患」。だがそれは「常に変化し、形を変えて存在し続ける」ものの、一つの表現形態に過ぎないのかも、しれない。すると、精神症状を消す薬を飲めばそれでおしまい、なのでもない。そうやって一部のみを止めてしまうと、他の部分に「変化し、形を変えて」顕在化するかもしれない。

誤解なきように言い添えておくと、治療が必要ない、と言っているのではない。ではなく、「この環境において、この社会のなかで、この歴史的な瞬間に生み出されていて、また生態学的な変化の産物でもあり、つまりは矛盾の産物」が「いま・ここ」で他ならぬその人に現れている意味を考え、「あらゆるレベルの構成要素の相互作用の産物」として受け止めることによって、その因果の連鎖に、別の働きかけをすることが可能でありうる、ということを言いたかった。それが、構造化のダイナミクスの面白さである。そして、前回のブログで引用したバザーリアの、次の言葉に行き着く。

「医師は単なる専門技術者でもエキスパートでもありません。薬を処方するのは医師の仕事ですが、患者と別の関係性を築くことによって、患者の暮らしに意味を与えることが医師には出来るのです。」

バザーリアは、現象学的精神医学を勉強していた時代は、精神疾患の構造を明らかにしようとしていたのかもしれない。でも、精神病院の院長になって、悲惨な収容主義の実態を目の当たりにしてから、構造の理解ではなく、構造化のプロセスに足を踏み入れた。精神病院の実態を変えるための、動的プロセスの中に関与することによって、「患者と別の関係性を築く」プロセスに身を投じた。それは、「あらかじめ『フレーム』によって対象と『時間』を区切り、限定された因果関係で理解しようとする手法」との決別を意味していた。でも、そのことによって、「人為的要因と自然的要因が複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象」としての施設収容という全体像を捉え、その収容主義を廃絶するための舵を切ることができた。そういう意味で、彼は構造化のダイナミクスを自ら展開させていった人である、とも言える。

深尾先生の著述は黄砂や黄土高原がフィールドであり、一見すると、精神病院や精神疾患とは全く違う内容にみえる。でも、それは「構造」のみを眺めた時に感じる「ちがい」である。しかしながら、深尾先生は優れた構造化のダイナミクスの記述であるがゆえに、その骨法は、全く別の領域において、何かを考える際の大きな補助線となる。これぞ、ほんまもんの意味で普遍的な理論であり、普遍的な記述である。あらためて、その学恩に感謝したいと思って、ながながと自分のフィールドにひきつけて感想をかいてしまった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。