ミドル・パッセージを生きる

今年で45才。中年真っ盛り、である。僕と同じように中年にさしかかった友人から、今の心に深く響く一冊を教わった。人生半ばの通り道について、アメリカ人のユング心理学者が書いた本である。

「ある朝、私たちは鏡の中に、自分という敵を見つけてしまうのである。自分の劣った性質に向き合う事は辛いことかもしれないが、それらを認識する事は他者への投影を自分に引き戻すことの出発点となる。ユングは、私たちが世の中のためにできる最善の事は、影を投影するのはやめて、自分でそれを引き受けることだと気づいていた。世の中で間違っている何かは、自分の中で間違っている何かであり、結婚生活で間違っている何かは、自分の中で間違っている何かなどと言う事は相当な勇気を必要とする。しかし、そのように謙虚になった時こそ、私たちは、自分たちの暮らしているこの世の中を良くすることに着手しているのであり、人間関係や自分自身を共に癒すための条件をもたらしているのである。」(『ミドル・パッセージー生きる意味の再発見』ジェイムズ・ホリス著、コスモス・ライブラリー、p79)

芸能人、政治家、近所のおばさん、コンビニの店員、飲み屋のオッサン、目障りな上司・・・誰でもいいけど、誰かがむかつくと言う時に、実はその相手の中に「自分という敵を見つけてしまう」のである。ユングはむかつく相手に自分の劣った性質=影を押し付けることを投影と名付けた。しかし、目障りなのは他人ではなく、他人に投影した己の影=劣った性質なのである。それを自分で引き受けることが出来るか、が問われている。

だが、「世の中で間違っている何かは、自分の中で間違っている何かであり、結婚生活で間違っている何かは、自分の中で間違っている何かなどと言う事は相当な勇気を必要とする」。たしかに、そのとおり。気がつけば、我が家における失敗について、ついつい「妻のせい」にしている自分がいる。でも、それは間違いなく「自分の中で間違っている何か」である。あるいは、言うことを聞いてくれない子どもや、指示に従わない学生に対しても、相手のせいにしがちだが、それも間違いなく「自分の中で間違っている何か」なのである。コミュニケーションパタンの悪循環においては、相手ではなく、己のパタンの間違いにこそ、自覚的でなければならないのに、はまり込んでいる悪循環だからこそ、「相手が悪い」と思い込みやすい。

なぜ、それを自分の問題として引き受けられないのか。著者は「自分の劣った性質に向き合う事は辛い」と端的に指摘する。そう、見たくない部分は、「相手のせいであり、相手の性格や仕業」だとラベルを貼る=投影しているうちは、自分には関係のない「他人事」である。でも、相手という「鏡の中に、自分という敵を見つけてしまう」のは、これほど恐ろしいことはない。相手の欠点だと批判していたものが、「自分の劣った性質」につながるのだから、ブーメランのように批判が己の喉元に突き刺さる。痛いこと、この上ない。しかし、それを統合することにより、別世界への道が開けてくる。

「影の統合で要求されるのは、私たちが社会の中で責任を持ちつつ、しかし同時に自分自身に対してもっと正直に生きることなのである。ペルソナの世界のデフレーションを通じて、私たちは自分たちが今まで暫定的に生きてきたことを知る。喜びに満ちたものにせよ、不愉快なものにせよ、ありのままの内的真実を統合すること、それは新しい人生をもたらし目的を取り戻すためには不可欠なのである。」(p81)

役割や社会的立場との自己同一化を、ユングは「ペルソナの世界」という。そして、人生の前半においては、そのような「ペルソナの世界」を最大限に追い求めてきた人は少なくないだろう。僕自身も、大学教員とか、研究者とか、そのようなペルソナの世界の最大化に努めてきた。しかしながら、確かに中年の危機においては、そのようなペルソナとの自己同一化に疑問を感じ、自分は一体何のために生きてきたのだろうという 問いを持つことによって、ペルソナの世界のデフレーションが始まる。それは暫定的に生きてきた世界ではない、ありのままの内的真実を模索する姿でもある。それは「自分の劣った性質に向き合う事」でもあるため、不愉快なものである場合もしばしばだ。

だが、劣った性質を他者に投影せず、それも自分自身の一部であると引き受けた上で、「自分自身に対してもっと正直に生きること」ができたら、「新しい人生をもたらし目的を取り戻す」旅が始まる。それが、個性化である。

「個性化と言う概念は、私たちの時代のためにユングが示した、魂のエネルギーにとって道案内人となる一連のイメージを表す神話である。簡単に言えば、個性化とは、宿命によって課された限界の中で、可能な限り自分自身になるという、各自に課せられた発達上の不可避の要請である。繰り返すが、意識的に宿命と対峙しない限り、私たちはそれに縛られてしまうのである。」(p193)

「意識的に宿命と対峙」することによってしか、「宿命によって課された限界」による「縛り」を乗り越えて、「可能な限り自分自身になるという、各自に課せられた発達上の不可避の要請」に応えることはできない。当たり前のことなんだけれど、言うは易く行うは難し、である。

自分自身の性格や特性、家庭環境や仕事環境など、「もう少し○○だったら」と思うこともある。でも、そうやってそれを外部化して、誰かの何かのせいにしている限り、相手に投影する状態から抜け出せず、「自分の劣った性質に向き合う」ことが出来ていない。宿命に縛られてしまう。そうではなくて、「自分の劣った性質」や好ましくない環境を、「宿命によって課された限界」だと自覚化すること。その上で、その制約条件の中でも「可能な限り自分自身になるという」「意識的な対峙」が、人生半ばの通り道=ミドル・パッセージには求められている。

では、「意識的な対峙」を具体的にどうすればよいか。それも、この本では教えてくれている。

「「私の中のどこからこれらのイメージが来るのか、このイメージから思い浮かぶ事は何か、私の行為について、それらは何と言うだろうか」と。
自分の自己感覚〔自己についての理解〕を真に修正するための唯一の方法は、このような自我とセルフの間の対話を持つことである。正式なセラピーを受けなくても、「耳を傾ける」ための勇気と日々の習慣さえあれば良い。そして学んだことを吸収し、統合することができれば、一人きりでいても寂しさを感じない。」(p222)

自己内対話のことを、ユング心理学では「自我とセルフの対話」という。訳注によれば「セルフは自我をしのぐ超越的なものとされ、ユングは『自我が意識の中心であるように、セルフはこころの全体性の中心であり、また意識も無意識も含めたものである』と言っている」(p19)。人生前半は、意識の中心である自我を軸として、生きてきた。社会的役割や立場などのペルソナを追い求めるのが、自我的な生き方である。だが、自我の背後には、「自我をしのぐ超越的なもの」であり、「こころの全体性の中心であり、また意識も無意識も含めたもの」としての、セルフがある。

ただ、「自我をしのぐ超越的なもの」というと、なんだか自分とは縁遠い、神がかった世界に感じられる。でも、セルフに至る道とは、「宿命によって課された限界の中で、可能な限り自分自身になる」道なのである。自分から遊離して、空想にふけることではない。逆に、あまりにも土着的、というか、自分の日常の中で沸き起こる、イライラやむかつき、腹立ちなどにも目を向けた上で、それらを「日々の生活に象徴として現れるもの」(p222)として受け止め、「私の中のどこからこれらのイメージが来るのか、このイメージから思い浮かぶ事は何か、私の行為について、それらは何と言うだろうか」と、自らに問いかけ直す。それが、可能な限り自分自身になる道であり、中年の時期にそこを通り抜けるのが、ミドル・パッセージなのである。

もちろん僕は聖人君子ではないので、まずはむかつくし、まずは腹が立つし、まずは妻のせいにしてしまう(笑)。でも一旦そうしてしまった後でいいから、振り返って考え直してみるのだ。そのむかつきや苛立ちは、自分の中の影ではありませんかと。そして、「私の中のどこからこれらのイメージが来るのか、このイメージから思い浮かぶ事は何か」とたぐり寄せるなかで、他者に投影した影を、そのものとして認め、自らの内的可能性として統合し直すことが可能なのだ。これは、これからの僕が追求したいことのひとつだ。

もうひとつ、今の僕に大切なことを紹介しておきたい。

「パラドックスは、これまで求めてきたものを全て捨て去ることによってのみ、私たちは、安定とアイデンティティーという人は欺きがちな保証を超越するということである。求めてきたもの全てを手放すのである。そうすると、不思議なことに、あり余るほどの何かが私たちの心にあふれ出してくる。その時私たちは頭で理解していること—ときにはそれも重要であるが—から、心の叡智へと移動するのである。」(p228)

「求めてきたもの全てを手放すのである。そうすると、不思議なことに、あり余るほどの何かが私たちの心にあふれ出してくる。」

これは最近僕も経験していることである。20代から30代にかけて、あんなに求めていたし、声高にあれこれ言い続けてきたことを、手放してみた。すると、向こうから色々とお声がかかり、オモロイ展開が始まりつつある。そのとき、僕は声高に主張しない。あくまでも、相手の声を受け止め、そこに応答していく。自分で流れを作り出そうと誘導したりせず、来た流れにふと乗って、どこに行くかわからない何かに身を任せてみる。それは、「これまで求めてきたものを全て捨て去ること」でしか出来ないし、確かに「安定とアイデンティティー」に安住してはいられない。でも、そういう安定やアイデンティティが、社会的役割や立場というペルソナだとしたら、それを手放して、「「耳を傾ける」ための勇気と日々の習慣」をもち、「学んだことを吸収し、統合すること」にこそ、心のエネルギーを費やす。他者を操作しようとするのではなく、流れに身を任せ、「あり余るほどの何かが私たちの心にあふれ出してくる」ままに、「心の叡智へと移動する」。

そういうことを、ミドル・パッセージで、練習し始めているのかも、しれない。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。