難民・移民問題と精神病院の共通点

子どもが産まれて以後、出張を減らしたこともあり、家から参加出来るZoom読書会を色んなオモロイ人としている。すると、たまに僕が全く知らないジャンルの著者の本が提示される。おっかなびっくり読んでみると、めちゃくちゃ面白くてびっくりすることがある。今回ご紹介する北川眞也さんの『アンチ・ジオポリティクス—資本と国家に抗う移動の地理学』(青土社)もそうだった。批判的地理学の世界も知らないし、対象となっている難民やロジスティクスの問題も囓ったことがない。でも、読み始めたら、僕の知っている世界と通底していた。

「収容所は、過去でも現在でも、権力の地図学的合理性と政治的理性の矛盾が生じるとき、つまり『国家が空間的に人びとをどう資格づけたらよいかわからないが、その移動性を統治し、かれらの適切な『場所』を定める必要があるときはいつでも現れ出る暴力的な政治的テクノロジーとして扱われるべきだろう』」(p242)

これはヨーロッパのユダヤ人や難民の収容所を念頭に置いて書かれた文章である。でも、日本の精神病院や入所施設にも、そっくりそのまま当てはまる。障害が「重度」とされ、支援を受けなければ「標準的な暮らし」がしにくいと国家にラベルを貼られた人たち。それは「国家が空間的に人びとをどう資格づけたらよいかわからないが、その移動性を統治し、かれらの適切な『場所』を定める必要があるとき」として国家に問われる問題である。そういう人びとも「国民」として遇する必要があることは、「政治的理性」としては理解している。でも、「標準的な暮らし」にはなじまないから、排除したいという矛盾が生じたとき、「山奥の、人里離れた場所に入所施設や精神病院を建てたら良い」という「地図学的合理性」が働く。実際、虐待問題を起こした神出病院は、神戸市の外れに位置づけられていて、周囲に障害者施設なども建っている。障害者虐殺事件が起こった津久井やまゆり園も相模湖近くの山の中だった。離島や山奥にあるハンセン病施設も全く同じ論である。そういう形で、排除したい人びとを国家は「暴力的な政治的テクノロジー」として「目につかない場所」に追いやり、分断統治するのである。

そのような収容所においては、虐待ではなく「歓待」が行われても、その構造的な問題は変わらない、という。難民を人道的に保護していたレジーナ・パチスの例を引いて、こんな風に北川さんは整理する。

「レジーナ・パチスへ歓待し、無償で食事や医療などのサービスを提供する人びと、いや何よりロゼルト神父が、『客人』に対して主権者のごとく君臨することになると言える。レジーナ・パチスが仮に『五つ星のホテル』だっとしても、内部では『主権者』としての神父の道徳、さらには気分を含めた決定が圧倒的な力を有することには変わりはない。レジーナ・パチスの『客人』にとっては、神父に気に入られるのか、嫌われるのかといった私的なことが人生の重大問題となり、かれらは『歓待』空間のなかで感情労働に従事することを強いられる。『私はロゼルト神父に不快な思いをさせたくない』というのが、拘禁された移民たちがもっとも頻繁に語るフレーズだった。」(p204-205)

残念ながらこの描写には馴染みがある。精神病院や入所施設、あるいは最近ではグループホームでも、虐待が相次いでいる。そういう施設においては、善意に基づく支援者が、いつの間にか「主権者」となる。そして、「歓待」は簡単に「支配」にすり替わる。そして、絶対的権力を持った支配者は腐敗していく。その後ロゼルト神父は、このレジーナから逃亡を試みた「客人」への虐待容疑で逮捕された。これは『権利擁護が支援を変える』とか『「当たり前」をひっくり返す』で議論してきた、福祉の構造的宿痾の問題と同じである。善意の支援者が圧倒的権力虐待をするようになる、という部分も含めて、権力勾配が激しい環境において、第三者の監視が入らない密室では、このようなことが普遍的に起こり続けるのである。

この慣れ親しんだ世界に通底する収容所問題について分析した第一部、第二部もめちゃくちゃ面白かったのだが、第三部「ロジスティクスとインフラによる戦争」は、全く知らない領域で、そういう風に捉えることが出来るのか、という学びが満載であった。

これを象徴するのが、「ジャストインタイムで、その地点まで(just in time, to the point)』(p252)というフレーズである。「Amazon当日お届け便」なんて、まさにその局地であり、僕もついつい使ってしまうフレーズは、まさにロジスティクスとインフラ整備の成果である。ただ、それによって、沢山のものが破壊され、我々が奴隷的消費者になっている。その極北の世界が、世界最大の虐殺が行われているガザ地区である。

「目的は、ガザ住民の抵抗や叛乱、独立の意思を粉砕するために、『ガザの人口全体を物理的生存の最低限度に近いところに置いたままにする』ことなのだ。実際、2008年から、イスラエル国防省は、ガザのパレスチナ人を餓死させたり、栄養失調を強いたりせず、最低限の生の水準に置くには、どれくらいのカロリーが必要となるのか計算していた。『人道的最小値』として、一日平均2279カロリーとされ、それがガザへの入場を許可されるトラックの数—週五日、106台のトラック、うち77台は食料—に翻訳されるというわけである。だが実際には、このレッドラインを下回る物資の輸送しか許可されてこなかったという。」(p291)

「餓死させたり、栄養失調を強いたりせず、最低限の生の水準」というのは、以前のブログで書いた、「犠牲化不可能であるにもかかわらず殺害可能である生」としてのホモ・サケルそのものである。そして、精神病院は、一つの収容所だが、ガザ地区は封鎖された一つの地域である。そのエリアすべての計算可能なものとして把握し、『人道的最小値』をトラックの台数に「翻訳」して、それだけを「ジャストインタイムで、その地点まで(just in time, to the point)』として送り届ける。そういうロジスティクスやインフラを、イスラエルはガザ地区に仕込んできた。今の虐殺はハマスへの報復云々ではなく、以前から周到に練られてきた構図がある、と北川さんは指摘しているのである。

そのようなロジスティクスとインフラ管理による支配は、日本における技能実習制度においても用いられている。

「技能実習制度という労働レジームが、暴力的なカプセル化を構造的に生み出しており、それがさらなる暴力的な管理を構造的に生み出しているのは確かである。パスポートや銀行通帳の没収をはじめ、携帯電話の使用禁止、寮に数多く詰め込まれる実習生、不衛生で汚い寮、WiFiのない環境、致死的な長時間労働、低賃金、賃金未払い、いじめ、性暴力、殴打、恐喝、負傷、死亡。実習生から何かしら異議申し立てがあれば、管理団体は強制帰国で解決を図ろうとする。多額の借金を抱えて来ている実習生にとって、強制帰国は極めて恐ろしいものだという。雇用主側からの性暴力の場合では、出身国の家父長制的規範のため、被害者が容易には表沙汰にできないこともある。この意味でも、労働移植はカプセル化した隔離的空間をつくりだしている。」(p393)

技能実習生のこのような「カプセル化した隔離的空間」を読んでいても、残念ながら精神病院で見た現実と通底している。神出病院で起きた虐待事件に関しての第三者委員会報告書を読んでいても、真冬でも暖房がつかない病棟という劣悪な環境や、そこでの患者の虐待構造、また患者の退院可能性のなさなどが克明に報告されている。私が昔フィールドワークで出会った精神障害の当事者は、病院内での性暴力があったが、「妄想ではないか?」取り合ってもらえなかった、と話していた。こういう「暴力的なカプセル化」は「一級市民」として承認されない人びとには、残念ながら、ずっと行われてきたやり方であった、と本書を読んで改め感じた。

もう一点、紹介しておきたい部分がある。

「『犠牲者』『犠牲者女性』について、受け入れ社会の特定のイメージやステレオタイプを強いることであり、拒否すれば、強制送還されうるという主権的な関係である。裏を返せば、女性達はこの『犠牲者』像に合わせ、みなが同情するような振る舞いを続けるように迫られる。(略)こうした女性をはじめとする難民たちは、西洋的な難民像、いわばキリスト教的図像学に由来するとされる人間の『苦難』、『貧窮』、『トラウマ』、『深刻さ』を抱えているように振る舞わなければならないのだという。」(p232-233)

このフレーズから、ヴォルフェンスベルガーによる「ノーマライゼーションの改竄」を思い出していた。(これは『「当たり前」をひっくり返す』の6章で取り上げている)

アメリカ人で知的障害者のことを研究していた学者であるヴォルフェンスベルガーは、1960年代、先進地のスウェーデンに訪問して、ノーマライゼーションの育ての父、ニィリエと出会った。その際、ダンスパーティーで出会った女の子について、こんなエピソードを残している。

「ヴォルフは部屋の隅に立って、皆のダンスを見ていた。ちょうど、誰かのお誕生日祝いの会が開かれていたからだ。しばらくして、彼は考え考え私に尋ねた。『あの女の子だけど、ダンスをしませんかって誘ってきたから、一緒に踊ったんだ。あの子は・・・なの?』 この女の子は少し英語ができたので、ヴォルフには、この子が少し英語のできる普通のスウェーデン人の女の子なのか、それとも知的障害がある女の子で、英語を習った子なのかわからなかったのだ。そこで私は彼に、あの女の子は確かに知的障害のある子だと保証した。ヴォルフには、この女の子が知的障害者でなく普通の女の子として“合格者”と見えたのだった。この女の子は社会的に価値ある役割を得ていたということだったのだ。」(ベンクト・ニィリエ『再考・ノ-マライゼ-ションの原理: その広がりと現代的意義』現代書館、p92)

スウェーデン人のニィリエは、知的障害のある人にも、その社会の通常の(ノーマルな)生活様式を提供する必要がある、という意味で、ノーマライゼーションの原理を提唱した。一方、アメリカ人のヴォルフェンスベルガーにとっては、知的障害のある人が「この女の子が知的障害者でなく普通の女の子として“合格者”と見えた」ことこそ価値がある、と捉えた。それは、「この女の子は社会的に価値ある役割を得ていた」という評価である。それは、社会的な権力を持つ側が、合格か不合格かを選別できる、という視点である。

これはまさに北川さんの指摘する、「受け入れ社会の特定のイメージやステレオタイプを強いることであり、拒否すれば、強制送還されうるという主権的な関係」そのものである。難民として受け入れられるためには、「西洋的な難民像、いわばキリスト教的図像学に由来するとされる人間の『苦難』、『貧窮』、『トラウマ』、『深刻さ』を抱えているように振る舞わなければならない」。それは、「この女の子が知的障害者でなく普通の女の子として“合格者”と見えた」というのと、構造的類同性を持つ。つまり、権力を保持する側が、マイノリティに対して、支援を受けるからには許容される振る舞いをすべきだ、と、内面まで支配しようとしていること、そのものなのである。

その上で、それらの抑圧者に対する抵抗運動として、オペライズモ(サボりやストライキ)やスクウォッティング(空き家占拠)などのアクションが提起されている。これが、精神障害者支援の領域でどんな風に言えるのか、まではまだ自分の頭で整理できていない。でも、様々な抑圧と抵抗に共通するフレームワークを考える上で、本書の洞察はめちゃくちゃ学びが大きかった。

追記:精神医療の領域でオペライズモやスクウォッティングに近い事って何だろう、とボンヤリ考えていたら、オペライズモの源流イタリアで、同時代で精神病院をぶっ潰したフランコ・バザーリアの以下の発言を思い出していた。

「あらゆる医学的知識の内容は病人を管理し抑圧するためにある、ということを認めなければなりません。病人は主体として治療を受けるのではなく、病人が生産の歯車のなかに戻 れるように、治療は行われます。私たちが精神病の問題に向き合うためには、精神医学の知識、精神分析、薬物療法、 電気ショック、インスリン療法、脳外科といった、医師たちが利用してきたすべての方法と手段を議論の対象にしなくてはなりません。」(フランコ・バザーリア『バザーリア講演録 自由こそ治療だ!』岩波書店、p133)

精神障害者の就労支援で最大の矛盾。それは、精神障害者が病気になるのは、生産性至上主義の社会で、歯車の一つとして必死になってズタボロまで働いて、その帰結として精神疾患になった当事者が、「社会復帰」の目標を、フルタイム労働者にする、という矛盾である。自分が病気になった原因である「生産の歯車」に戻りたいという「強迫観念」。ここからどう自由になれるか、が、ほんまもんの治療やリカバリーとして問われている。

そのとき、映画「人生ここにあり」に描かれたイタリアの社会的協同組合とか、あるいは不登校やひきこもり経験のある当事者が、対等な関係性を仕事の場で求めた結果作り上げた労働者協同組合440hzとか、そういう協働労働的な何か、が、「生産の歯車」に戻らないための抵抗のありようとして考えられるのではないか、と付記しておく。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。