己の語り口を疑え!

先日、ある歴史的経緯について僕と同じような見識を持たれた方の意見が、僕の知る他の方によって批判されていた。批判をした人は、その方の意見そのものに批判的なのではない。その人の語り口の強さや一面性について、問題視されていた。なぜそういう語り口をするのか、と。なぜそのような言い方で言い切っていいのか、と。そこには様々な歴史的ファクターがあるのに、それらを全てバッサリ否定して、一面的な正誤の判断をしてしまっていいのか、と・・・。

その話を聞きながら、すごく気になり始めた。実は僕だって、批判をされた人と同じ語り口をしてはいないか。つまり、「I am right, you are wrong」のロジックで話しているのではないか、と。

この二項対立的言説は大変クリアカットでわかりやすい。でも、その際、wrongと宣言された人に、反論の余地は全くない。何をどういっても、wrongの人の戯言だ、で終わってしまう。これは、対話の回路を全く閉ざすことである。論理的に相手が言うことの方が正しいと理解できても、感情的なしこりは全く消えずに、むしろ増幅される。そして、この世の中で、論理的整合性の破綻よりも、感情的亀裂の方が、問題をより深刻化する可能性が高いのだ。

要は、本当に問題を解決したいのなら、正邪の二項対立の論理を設定して相手を言い負かすのではなく、同じ方向を向かって、一緒にあるべきrightの可能性を模索しようよ、という語り口(言説)の方が、実際的に多くの人の共感を得て、物事を変えうる、のである。タケバタは、本当に物事を解決したいのか、はたまた誰かを言い負かしたいだけなのか?

もちろん僕は理論的喧嘩に勝って(言い負かして)自己満足をしたいのではない。多くの人の合意に基づき、この日本社会がもっと幸せな社会に変化していってほしい、と願っているだけだ。ならばその際大切なのは、正邪の判断を断定することではなく、どうすれば望ましいsolutionの道へと歩めるのか、を様々な立場の人が協働して見いだしていくことである。

・・・こう整理してみると、最近自分の周りで起きている現象も違って見えてくる。ここ最近、自分の周りでうまくいっていないこと、あるいは反発意見が寄せられたこと、を一つ一つ眺めていくと、実はその多くが、「I am right, you are wrong」のロジックで僕がねじ伏せていた例であった、ということを、今朝、大学に行く途中の愛宕トンネルの中で急に気がついてしまった。「そっか、あれがうまくいかなかったのは、他の誰のせいでもなく、僕自身の語り口に端を発しているのだ!」と。

そう思うと、気がつけば、僕の周りでは様々な警告ランプが点灯している。その警告ランプにきちんと自分で答えられるかどうか、はまさに自分自身にかかっている。自己満足から始まって他者満足まで志向するタケバタにとっては、自分の発言へのリフレクションは、次への一歩を進める上で、大きな一歩となるはずだ。難しいこっちゃない。自分の語り口そのものをまずは疑えばいいのだ。Am I something wrong?

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。