引っかかった骨

 

喉に骨がつっかかると、気持ちが悪い。
よけて食べたつもりなのに、喉の奥で突っかかっている。ご飯を呑み込んでみても、なかなか一緒に流れてくれない。忘れたふりしてご飯を食べ続けても、喉の奥からその存在を絶え間なく教えてくれる。

そんな、引っかかった骨のような言葉もある。

自分が何気なくその場の雰囲気の中で口から出た言葉。その中で、こちらは意図した訳ではないのに、結果的に何らかの「ひっかかり」が残ってしまった言葉もある。意図せざる結果、バタフライ効果のように、あらぬ方向から、何らかのハレーションが生じることもある。

その際、真っ先に頭に浮かぶのは、自分の意図を強化する形での「○○のつもりだった」「それは誤解だ」「俺は悪くない」。しかし、なんと主張したところで、現実に小骨は突き刺さっている。意図とは違っても、大骨ではなくても、確実に、自分が簡単に取れないところに、何らかの骨が突き刺さってしまっているのだ。

さて、どうしたものか。

もちろん、実際の骨の大半は、そのうちに取れる。
それと同様に、言葉の小骨も、意図せざるにせよ引っかけた側は、そのうちその発言を忘れてしまう。ただ、魚の骨と言葉の違い、それは、言葉の場合、引っかかった側はなかなか忘れてしまわない可能性がある点だ。その骨がずっと突っかかるばっかりに、相手に対して、微妙な距離感や、下手をすれば一生の傷になる可能性もある。

意図せざる結果、であっても、結果的に小骨が引っかかっている。
この引っかかった小骨、個人の努力だけでは取れないことも勿論多い。だが、だからといって「知らんぷり」をしているのか、出来る範囲で誠実に「ご飯を呑み込む」、つまり骨を取り去る努力をしてみるか。そのどちらかで、大きく変わる。

魚を食べなければ、小骨は引っかからない。言葉を発しなければ、ハレーションは起こさない。
しかし、僕は魚も言葉も必要としている。

骨はどうやってとれるのだろう。そして、この引っかけた一件から、僕自身は何を学ぶのだろう。
何にせよ、同様の「引っかけ」だけは、繰り返したくない。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。