研究者とメディア

とある現場でメディア関連の方と話していて、改めて福祉に関わる研究者とメディアの共通点について考えていた。

事実をある枠組みの中で再解釈して一つのストーリーとして再構築し、誰かに伝える役割。しかも、理論と現場、現場と視聴者などの「あいだ」という立ち位置。この役割と立ち位置を、どう現実に活かせるのだろうか、そんなことを考えていたのだ。

例えば障害者分野で言えば、今は4月からスタートする自立支援法のことで、この業界はもちきりだ。勉強会は各地で開かれ、多くの方々が何がどう変わるのか、が見えてこず、とにかく必死で勉強してついていこうとされている。勉強自体は大変結構なことなのだが、私たちは勉強すればするほど、その「勉強」にのめり込み、ついつい現実を忘れてしまう。そもそも、その枠組みがいったいどこからやってきて、何がどう問題化され、どれは放置されているままなのか・・・。こういった本質的に大切なことは、目前の変更課題についての勉強に翻弄されている間に、いつの間にか遠くに追いやられてしまうのだ。そして、ようやっとその制度を理解したころには、またさらなる制度の変更が追いかけてきて、いつまでも目の前の勉強にのみ終始する。その間に、本質的議論はどんどん後退し、現実の後追い勉強をすればするほど、本来許せないはずの現実でも「しかたないよ」としたり顔に現状追認する「かしこい」人間に変わっていく・・・。

こういう現状追認システムに「ちょっと、待った」をかけられるのが、メディアであり研究者である、と思うのだ。

何に「待った」なのか。まずは、そもそも新しい制度の「勉強」にのめり込むことに「待った」である。不用意に「勉強」に入り込むことは、まず相手のロジックを肯定することに繋がりかねない。そのロジックが内包する問題点や矛盾点は、無批判にそのロジックの勉強に終始する人間には決して見えてこない。「でも、そうは言っても新しいシステムを勉強しないとついていけない」 こういう意見が出てくるかもしれない。この意見にも「待った」である。何のために「ついていく」必要があるのか。「乗り遅れたら大変」という答えが返ってくるかもしれない。では、乗り遅れると、何がどのように大変なのか? そもそも、本当に、その仕組みに乗っかったら幸せになるのか? また乗り遅れたら、どうしようもないのか? 本当はそのシステム以外の新たなシステムの方が、乗り心地も方向性も良いのではないか? こういったことを、一呼吸置いて考えるための「待った」が大切なのである。

メディアも研究者も、事実をある枠組みの中で再解釈して一つのストーリーとして再構築し、誰かに伝える役割と書いた。この際、ある事実に関する解釈は、決して大本営発表である必要はない。むしろ、メディアや研究者の真骨頂は、世間で信じられている大本営発表のストーリーをひっくり返し、いかに同じ素材から、違う文脈で、違う展開で、新たな物語へと再解釈できるか、が腕の見せ所のはずである。しかるに今のメディアも研究者も、どうも大本営発表の強化役割を果たしているような気がしてならない。

また、研究者もメディアも、理論と現場、現場と視聴者などの「あいだ」という立ち位置にいる。「あいだ」にいるからこそ、両方の現実を有機的に結びつける事が本来可能な、接着剤の役割を果たしうる。そして、その接着剤が良い場面で適切に効いた時、そこから現実を変えうる歯車が回り始めるのだ。だが、現実は「あいだ」の位置で右往左往するか、「あいだ」を標榜しながら、どっちか片一方に固着している例が多い。

これらは何も福祉に限らず、日本の現在のメディアや社会科学系の研究者にある程度共通する、ある種の機能不全のような気がする。この機能不全をどう超えていったらいいのだろう。そんなことを、考えていたのだ。で、その処方箋はそう簡単に思いつかないが、少なくとも、その立場にいる人間が、自らの立ち位置を常に自覚しながら「待った」をかけていく、この正面突破作戦が、実は一番処方箋として効果があるのではないか、と今のところ感じている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。