外堀を埋める

 

久しぶりに雨の甲府の朝である。
先週は台風がかすめたようだが、そのころは韓国にいた。我が家の植木や物干し竿がそのままだったので心配だったのだが、何もひっくり返っておらず、とりあえず一安心。しそもバジルも心なしか以前より元気だったりするから不思議。ただ、日月と合宿で訪れた旧大和村で伺うと、台風で国道20号が止まり、孤立状態になった、とか。山梨でも他にも山村での爪痕が残っているようだ。今日も結構な雨、これから身延線に乗るが、降水量が一定規模を超えると止まってしまう。電車が止まらないか心配だ。

そう、8日ぶりにこのブログを書くのだが、この間火曜から土曜まで韓国に行き、日月はゼミ合宿で、火曜日は半日みっちり県の仕事、そして今日明日と大阪出張と何ともなぁ、というスケジュールなのである。もちろんそれを組んだのは自分なので自業自得なのだが、相変わらずドタバタ続き。口いっぱいに食べ物をほおばるわがまま坊やのような、欲張り日程である。

実はゼミ合宿は、僕自身も生まれて初めて。大学時代、院生時代通じてほぼ師と1:1が原則だったので、多人数で合宿する、それに教員も合同で、というのは、殆ど経験がない。院の講座全体の合宿に1,2度参加したが、あれは50名規模だったので、それとは何か違うような気がする。公務員試験直前の4年生1人は欠席したが、あとの4年生と3年生の合計7名と僕で、車二台に分かれて大学から出発。途中で酒とおつまみをわんさか買って、30分ほど走ると、山間の「自然学校」に到着。会議室を借りて、最初はアイスブレーク的なおしゃべりをした後、各人の夏休みの課題についての発表に移る。ゼミで1時間半という時間しかないとどうしても時間を気にして内容を掘り下げられないのだが、ここでは時間がたっぷりある。一人に1時間弱かけて、みんなでコメントをしながら、ひとり一人の研究テーマについて考えていく過程は意義深い。結局一日目は3時間、二日目は4時間ほどみっちり議論をした。ゼミ4回分くらいだ。ゼミ生はもちろんクタクタ。

ただ、当然その間に、バーベキューもし、お風呂にも入り、ご歓談タイムといった「お楽しみ」も設定する。これも当然のことだが、学生さん達はそのお楽しみタイムは大いに盛り上がる。一方、当方は韓国の疲れがどっと出て、バーベキュー直後から意識がもうろうとする。学生によれば宿泊棟の玄関先の椅子で寝ていたそうだが、まあ貸し切り状態なので、それもご愛敬。その後また飲んでいたが、11時過ぎには早々に退散。翌朝までバッチリ寝たので疲れが取れたが、学生さん達は3時半とか4時半までしゃべっていたので、青春モードだなぁ、と親父発言もしてみたくなる。しかし、宿泊棟を朝の9時には明け渡さなければならないので、9時に全員着替えて、そこから4時間みっちりお勉強。朝ご飯を食べながら、も最初のプレゼンをしてもらうのだから、少しタイトなスケジュール。学生さんには多少は過酷な経験だったかもしれないが、まあこれも「一夏の思いで」になるのだろう。良い場所だったので、来年も活用させて頂くつもりだ。

合宿の教育学的な効果は何か、というと、やってみて思うのは、大学という日常空間を離れた異空間で、ゼミ生同士が普段持っている鎧を解いて、本音でより深く議論が出来る、ということ。あと、まとまった時間がある、ということは、うまくモデレート出来れば、共有できる価値や知識、枠組みを掘り下げて考える事が出来る。タケバタゼミでは個々人の課題を掘り下げてもらっているのだが、今年のゼミ生達のテーマは育児休業、中途障害者、スポーツNPO、不登校、自閉症、高齢者福祉、男性の育児と実に多岐にわたる。でも、合宿で整理する中で、「外から中へ」「中から外へ」という二タイプに分類できる事がわかってきた。

既に自分が経験した事がある(現に活動している)個々人の具体的内容があり、それをより普遍的・客観的に他人に伝えるために、様々な文献を読みながら「言葉を探す・知る・持つ」ことがメインの「中から外へ」のタイプ。逆にこのテーマに関心がある、という抽象的な(漠然とした)思いからスタートし、具体的事実と文献や本を通じて出会って特定のテーマで固有の経験をしようとする「外から中へ」のタイプ。どちらにしても、その往復が必要なのだが、そんな風に分類できる、という風にまとめると、彼ら彼女らにもその概要がよくわかったようだ。

「言葉を探す・知る・持つ」とは何か? 
自分の経験、というのは相対化しないと往々にして独善的になる。不登校の経験がある学生さんには、とりあえず大学で借りれる関連書籍を全部読んでごらん、と夏休み前に伝えておいた。37冊のうち10冊を読んで発表に臨んでくれたが、10冊分あるだけで、彼の語りは俄然変わってくる。以前は「俺の経験では」「俺はこう思う」というのしかなかったのだが、それに他人の視点・切り口・論理が入ると、「それと俺の視点はどう違うのか」という、「○○ではない何か」の外堀をドンドン埋め始めることが可能になる。すると「俺は」という言語でしか話せない時には他人にはわかりにくかった、彼の言いたい経験の輪郭が、おぼろげながら見えてくる。ひとたび「俺は」以外の他人のロジックや言葉を「探」す作業をするなかで、自分とは異なるスタンスを「知る」。すると、「○○ではない(=非A)」という形で、結果的に言いたいAの本質に一歩近づく言葉を「持つ」ことが出来るのである。すると、その発表は俄然光を帯びてくる。こういうキラリと光る佳き深化に遭遇すると、俄然、こちらも元気になってくる。

というわけで、せっかく韓国では久しぶりに英語漬けになっていたのだが、日本に帰って早速日本語漬けになったので、モードがすっかり日常モードに切り替わってしまった。権利条約関連の内容は、そろそろ大阪に行く準備をしなければならないので、また今度!?

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。