「まだない何か」の模索

 

久しぶりに朝4時頃、目覚める。
ようやく懸案の論文を昨晩脱稿したことで、少し気が高ぶっているようだ。いや、カラスがかぁかぁうるさいから、というのが、本当のところかもしれないが・・・。

去年の夏にとある学会に投稿し、正月にボツとして帰ってきた論文を、バラバラにひもといて、データを入れ直して、新たに綴じ直す、という作業。結構な難産だったので、感激も一塩。前の枠組みを崩して、問題点を整理して、足りない部分を調べ直して、新たな枠組みを作り直す。慣れないカリフォルニア州の精神保健政策のことでその枠組みの再構築をしていたものだから、非常に骨が折れる仕事だった。どこまで探っても、情報公開大国ゆえにざっくざくと資料は出てくる。だが、肝心の決め手となる骨格は、資料を探るほど見えにくい。そう、自分の頭でみっちりと考えて枠組みを作ろうとしない限り、情報の海に溺れるだけ、となるのだ。

「下手な研究者は無駄に情報ばかりを求める」

恩師の言葉を、同じ師のもとで学んだ友人からのメールで久しぶりに思い出す。「無駄に情報ばかり求め」て、自分の頭で考えないから、何が何だかわからない「右から左」論文になるのだ。事実の整理、にも、一定程度の編集がいる。その際、何を捨てて、どういう方向で、どういう意図を持った整理なのか、という主体的編集が出来るか否か、で文章の性質が全く変わってくるのだ。そういう意味では、前回ボツになった原稿を、一字一字打ち直しながら7割以上書き直したのが、多少は功を奏したのかもしれない。再編集するなかで、前回の論文がいかに情報の交通整理が出来ていない代物か、「こんだけ勉強したから認めてよ」的な、夏休みの宿題やっつけ仕事的論文であったか、を思い知る。情報に流されて、自分が主体的に編み込む、ということが出来なかったのだ。そりゃあ、読まされる査読者も苦痛でしょうね。だから、C評価をつけられた方には、厳しいお言葉が書き連ねてあったのだ。だが、そのお陰でどういう論点が足りないのか、を身にしみるほど感じられたので、これにも感謝しなければ。ま、もちろんぬか喜びは禁物で、査読者からのリプライが来て、初めて判断できるのだが。

さて、これで何とか予定通り「8月の宿題」に区切りをつける。だが、まだ大学の夏休みも残っているが、「宿題」だってたんまり溜まっている。大学の教科書用の原稿に、紀要に書こうと思う支援者組織の論文、あと調査と言えば今週は韓国で障害者団体の世界大会のお勉強に出かけ、来週は科研の調査で大阪へ。再来週ってそう言えば学会発表をするんだっけ、と想いながらカレンダーを眺めると、その次の週から、うえっ、大学は再開される。その間も県の仕事も入っているし、大学の業務関連の宿題も全く手がついてない。さらには後期の授業準備も考えると・・・。とてもとても、「休み」とは言えない。まあせめてもの慰めは、明日以後の韓国で美味しいモノを食べまくることだろうか。

今回の韓国では、昨年暮れに成立した「障害者の権利条約」を受けて、各国で、国際的に、どのような取り組みが進んでいて、何が課題になっているのか、が議論される。2004年の夏にニューヨークの国連本部で特別委員会の議論を垣間見て以来、ちょっとずつ囓っているが、まだきちんと理解しきっていない。昨年春にバンコクでアジアの障害当事者代表による会議を傍聴する機会もあったが、そう言う場で議論を聴くたび、「charity basedからrights basedへ」という言葉に心揺さぶられる。恥ずかしながら、rights based(権利に基づくアプローチ)とういものを初めて知ったのも、ニューヨークに行った時のこと。気になって、国連本部の地下にある国連ショップの本屋さんで“Human Rights Approach to Development Programming”というUNICEFの本を買ってみて、帰りの飛行機で辞書を引き引き読み進めていったのが、最初の出会い。国際協力系では慈善に基づく(つまり上下関係になりやすい)援助から、被援助者のエンパワメントを促す支援を行うにはどうすればいいか、が大きな議論の争点となっていたのだ。ここから、「そういえば僕が所属していた大学院には、そういうことを研究している人がいたよなぁ」と記憶とご縁をたどっていくと、灯台もと暗し、そういう研究をしていた仲間がぎょうさんおったんです。で、何人かの国際協力論の仲間との交流も、そこから始まったりした。

こうやって考えると、改めて、自身の視野の狭さが問われてくる。大学院に入学した時、「自分は日本の障害者福祉のことをやるので、国際協力論なんてあんまり関係がないかも」と不遜にも思っていた。でも、NYの国連本部の本屋で買った一冊の本を読むうちに、「どうやらright basedでつながっているかも」と気付き始めた。で、気づいてみると、パウロ・フレイレのようなルーツにたどり着く。これは前に「その1」「その2」と書いた後息切れしたが、障害者政策の研究会で読んでも充分に新鮮で、内容の濃い名著だ。入所施設や精神病院にいる障害者を「能力のない人」とみるか、「抑圧されている人」とみるか、で、その後の支援は全く方向性が違ってくる。どういうパラダイムで政策を眺めるか、で、実現すべき政策内容も全く違ってくるのだ。

で、自立支援法でも一応「地域移行」「地域での相談支援体制の整備」と言っている。問題が多いこの法律ですら、慈善から権利ベースに、形は変わりつつあるのだ。問題は、表面的形式に変容があっても、内実が変わらなかったら意味がない、ということ。そのあたりを突き詰めるために、この権利条約という外圧がてこにならないか、を模索している人々も少なくない。僕もその視点で、韓国で権利擁護についての学びを深めてこよう、と思っている。そう考えたら、しまった、予習すべき本も溜まっていたんだ・・・。

書き直した論文にしても、権利条約のことにしても、情報の海に溺れるか、自分が主体的に枠組みを作り直すか、で、その深さや拡がりが変わってくる。虹が何色に見えるか、の逸話ではないが、自分が主体的に編み込めば、2色が7色にも見えるのだ。で、もっといえば、その編み込みが進むほど、彩りが鮮やかになり、深みを帯びてくる。「これはこうでしかない」と限定づけることは、単純化ではあるのだが、固着的で、一番深みがない。「これはあれにも使えるかもしれないなぁ」「あれはそれにもつながっているかも」と、ブリコラージュ的に、あるものを駆使して、「まだない何か」を主体的に構築する能力が僕にはまだ欠けている一方で、それが出来るブリコロールに強く憧れていることは確か。今できることは、目の前にある課題とどう格闘するか。その中からどう「まだない何か」を模索・構築出来るか、だ。アメリカの精神保健政策も、権利条約も、その部分で自身が模索する「まだない何か」の一部のはず。さて、ここからどう転んでいくのだろうか。

あ、気が付いたらもう6時。ぼやぼやしていたら、仕事に出る時間。そろそろ渡航準備に戻ります。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。