「失望とフラストレーション」で終わらないために

 

「多くの人は、自分がどんな信念をもっているかにすら気付いていない。したがって、その信念を理解しようとしたり、修正しようとしたりする機会はあまりない。他人への接し方に関して、自分の信念がどう影響しているのだろうか? その点がわかっていないと、自分とは違った考え方や行動を受け入れるのは難しいだろう。(略)
私とあなたがお互いの信念にきづかなければ、それぞれが相手を厄介者扱いする。反対の考え方を持っているわけだから、相手の考えを聞くのは骨の折れる作業になる。お互いを侮辱し合うことにもなりかねない。互いにうまくやっていくのは至難の業だ。
このように、自分の考えを持っていると、相手に何らかの行動を期待してしまう。そして、相手も別の考えに基づいて、別の行動をこちらに期待する。信じるところが違えば、お互いの期待は成就せず、失望とフラストレーションだけが残る。一方、お互いに相手の考えを理解しようと努めるなら、性急に決めつけることなく相手の主張に耳を傾けられる。」(マデリン・バーレイ・アレン『ビジネスマンの「聞く技術」』ダイヤモンド社、63-64

ここ最近、幾つかの〆切やら、新しい展開やらの真っ直中にあって、なかなかブログの更新が出来ない。もう少し長めに書きたいネタも二つほどあって、家のデスクの前に置いてあるのだが、その時間がとれない。今日も、今日が〆切の原稿の詰めの段階で、長々書いている余裕はないのだが、でも、最近読み返しているこの本の、「自分がどんな信念をもっているかにすら気付いていない」という部分は、まさに僕自身に当てはまる。今、幾つかの状況で「失望とフラストレーション」が生じている。何でだろう、と、困惑している時に、実はパートナーに同じ事を言われた。「みんなあんたのように考えている訳ではないよ」。そういわれてみて、ハタと気付いたのだ。そうか、僕は僕の「信念」を前提に話しているのだ、と。

その際、「信じるところが違」うという事実に気付いていなければ、「自分とは違った考え方や行動」に出逢った時に、「相手を厄介者扱い」にしてしまう可能性がある。すると、結果として「お互いの期待は成就せず」、となるのだ。幾つかの暗礁に乗り上げかけている課題は、おそらくこの「私とあなたがお互いの信念にきづかな」いことが原因になっているようだ。で、それを変えるために、「だからあなたがわかっていない」と言ってしまうのは、全くの悪循環。そう、僕が気付いたのなら、僕から変わる必要があるのだ。

正直、「相手も別の考えに基づいて、別の行動をこちらに期待する」状況にあって、「相手の考えを聞くのは骨の折れる作業」である。それは、単に話を聞くのが面倒だ、というのではなくて、異質な何かと、自分の信念とは違う何かと向き合うことが、イコール自分自身のゆがみや偏りと直に向き合うことになるからだ。つまり、「反対の考え方」を直視する事から、反射的に自分の考えの枠組み、というものが照らされて、しんどいのである。ツーと言えばカーとならない事態だからこそ、対話の困難性の中に、困難をもたらす自分自身の要因をも見出すのだ。そりゃ、人間自分の嫌な部分を見たくない。話が通りやすい人と慣れた会話でお茶を濁す方が楽ちんだ。だからこそ、対話はしんどいのである。

さあ、しんどいその状況下にあって、逃げるか、真正面から向き合うか、が問われている。
でも、どうせなら「失望とフラストレーション」で終わるのは、あまりに面白くない。すると、残されている選択肢は、「性急に決めつけることなく相手の主張に耳を傾け」ることを通じて、「相手の考えを理解しようと努める」しか、ないのだ。何だ、答えは簡単だ。でも、これほど、言うや易し行うは難し、なことはない。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。