内なる「他者」との出会い

昨年、「困難を抱える人への『支援』とは」というテーマで、「ヒューマンライツ」7月号に、以下の文章を寄稿した。講演などで語っていることを割としっかり考えてまとめた文章なので、ここに再掲しておく。
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<「内在的論理」を掴む>
私は、佐藤優氏の著作を好んで読み続けている。「外務省のラスプーチン」とも言われ、背任容疑や偽計業務妨害容疑で逮捕され、その後、執行猶予付きの判決が確定し、外務省職員から作家に転身した、あの佐藤優氏である。あまりに多作なので全てを読むことは出来ないが、彼の主要な作品や自伝シリーズなどは、なるべく読むようにしている。彼の分析が非常にシャープなのは、膨大な読書量もさることながら、相手の内在的論理を掴む、という点で、秀逸だからである。彼は、その要点を以下の様に語っている。
「ヘーゲルの分析手法の特質は視座が移動することだ。ヘーゲルは、特定の出来事を分析する場合、まず当事者にとっての意味を明らかにする。対象の内在的論理をつかむことと言い換えてもよい。その上で、今度は、対象を突き放した上で、学術的素養があり、分析の訓練を積んだ”われわれ(有識者)”にとっての意味を明らかにする。更に有識者の学術的分析が当事者にどう見えるかを明らかにするといった手順で議論を進めていく。当事者と有識者の間で視座が往復するのだ。この方法が国際情勢を分析する上でも役に立つ。」(佐藤優『地球を斬る』角川学芸出版 p266-7)
この方法は、国際情勢を分析するだけでなく、福祉や支援対象者を分析する上でも非常に役立つ。本誌は自治体や企業の人権担当の方にも広く読まれている、とのことだが、例えば自治体や企業への「クレーマー」「モンスター○○」とラベルを貼られた人々を分析する上でも、大きく役立つかもしれない。それは一体、どういうことか。
私たちは、事実と価値を混同しやすい。事実だと思い込んでいる事の中に、価値判断が沢山含まれている。例えばシングルマザーが生活保護を申請しようとした時に、「若いんだからもっと働けば良いのではないか」という価値判断が、生活保護のワーカーの前提としてあるかもしれない。だが、シングルマザーも千差万別。確かに就労が十分に可能な人もいれば、本人が疾病や傷害を持っていたり、DV等を受けて養育費をもらえなかったり、あるいは職歴が乏しく子沢山でバイトの掛け持ちで生活がまわらない、という個別の事情がある。それを斟酌せず、「甘えだ」「若いんだから働けるはずだ」と決めつけるのは、事実ではなく、価値判断である。
一方、相手の内在的論理を掴む、とは、「特定の出来事を分析する場合、まず当事者にとっての意味を明らかにする」ことが、その要点である。この際、大切なのは、自分自身の価値前提を、一旦括弧にくくり、虚心坦懐に「相手にとっての意味」を掴もうとすることである。生活保護を申請しに役所の窓口を訪れたシングルマザーの「内在的論理」を掴もうとするなら、彼女がなぜ「働けない」のか、就労の収入だけで暮らしていけないのか、どういう気持ちで申請に訪れているのか、どのような懸念や不安を抱いているのか、子ども達の状態はどうなのか・・・という「当事者にとっての意味」を徹底的に理解する必要がある。この際、自らの価値観を入れると、既に解釈が入ってしまうため、相手の内在的論理を十分理解することは出来ない。自分の価値観は「横に置いておいて」、とりあえず、徹底的に「相手の論理」を、例え自分の生き方と違うものであっても、理解するのが戦略的に重要なのである。
その上で、「対象を突き放した上で」、この社会の文脈の中で、その内在的論理はどう受け止められるか、を分析する。その際、自らの分析にどのような価値前提やバイアスが掛かっているか、に自覚的になる必要がある。どんな人であれ、中立公平な視点、などというものはない。行政担当者なら、「行政として」という立ち位置で、知らず知らずのうちに分析している。その自らの内在的論理に自覚的になりながら、相手の論理を分析する。相手の価値と、自分の価値を、対比させて考える。さらに、こちらの「分析が当事者にどう見えるかを明らかにする」ことも重ねる中で、あなたと私の間で「視座が往復」させる。これが内在的論理の肝だ、と佐藤氏は述べている。
この分析方法は、本誌のテーマである「困難を抱える人の支援」を考える際に、役に立つ、どころか必要不可欠な視点である、と考えている。
<非合理の合理性>
自分自身の価値観と大きく異なるように見える相手のことを理解する、のは簡単ではない。ホームレスやひきこもり、「ゴミ屋敷」の主、精神障害者・・・などのように、世間からマイナスの偏見や先入観のレッテルが貼られている人々、あるいは行政の窓口や企業のコールセンターに過剰なエネルギーで苦情を言いつのるモンスター顧客のことを、どうやったら「理解」出来るのか。このような問いを持っている読者もいるかもしれない。
相手の内在的論理を掴む際に大切なのは、事実と価値判断を分けて考えることである、と先に述べた。さらに言えば、相手にとっての合理性と、自分自身にとっての合理性を分けて考えた方が、うまく分析が出来るかもしれない。つまり、自分自身の価値前提や合理性から一旦自由になって、相手の価値前提や合理性を、相手の眼差しから眺めてみる、ということが大切なのだ。
具体例で考えて見よう。家の中だけでなく、庭先や道路沿いまで、ゴミで埋まっている家がある。「ゴミ屋敷」と福祉業界ではラベリングされている。近年では、マンション内ゴミ屋敷、という現象もある。授業で「ゴミ屋敷」問題を取り上げ、冒頭で学生達に、「なぜゴミ屋敷が生まれるのか?」と聴くと、「ゴミが好きだから」という答えが返ってくることもある。そこで僕から、「君はゴミは好きなのかな?」と再度尋ねると、「私は嫌いです」と答える。このやりとりから、「ゴミ屋敷」の主は、自分自身とは全く異なる思考回路の持ち主である、という偏見や先入観が見えてくる。だが、本当に「自分自身とは全く異なる思考回路の持ち主」なのだろうか?
前提として書いておきたいのは、「ゴミが好きな人」は、ほとんどいない、ということである。ではなぜゴミが溜まるのか。そこには、千差万別の理由がある。Aさんは、二世帯住宅を建てたが、退職後に妻に離縁され、子どもは寄りつかず、病気になり、生きる意欲を失うと共に、ゴミが溜まってきた。Bさんは、同居していた兄弟が亡くなった後、少ない年金で暮らせず生活保護の申請に行くも、持ち家の売却を迫られ保護申請をせず、生活手段として使えるものを拾い集めている。Cさんは、仕事をクビになり、アルコール依存になる中で、部屋が荒れ放題になってきた。これらのエピソードに共通するのは、「ゴミが溜まる」のは、生きづらさが増幅する中での結果であって、「ゴミを溜める」というのが目的ではなかった、という点である。この内在的論理を、しっかり押さえておく必要がある。
これは、「ゴミ屋敷」へのアプローチにも、大きく関わる部分である。これまでの「ゴミ屋敷」問題へのアプローチの仕方として、町内会や近隣総出で「ゴミを片付ける」けど、数ヶ月したらまた「ゴミが溜まり」、近所とご本人の対立は深まる、という悪循環の形が少なくなかった。これは、「ゴミを捨てればそれで良い」という周囲の関わり方が、本人の内在的論理を全く無視したものであるから、だとも言える。「ゴミ屋敷」の主にとって、「ゴミを溜める」のが目的ではない。「ゴミを溜める」形でしか自己表現が出来ないほど、追い詰められたり、自暴自棄になったり、孤独や生きる苦悩が深まっているのである。つまり、それらの孤独や不安、寂しさなどに寄り添うことなく、「ゴミ屋敷」の主の内在的論理を理解せずに「ゴミを捨てる」行為は、本人と周囲の間に亀裂や分断を深めるだけ、なのかもしれない。
では、どうすれば良いのか。まずは、ゴミを溜める、ご本人なりの理由や合理性を伺うことである。ゴミを溜める人には、それなりの理由(=合理性)がある。それは、世間から見れば「非合理」に見えるかもしれないが、本人なりの正当性や必然性がある。その「非合理の合理性」を追求することが、最も「合理的」な解決策を見出す入口である。さらに、支援現場に携わった経験のある人なら、この「非合理の合理性」に、ある共通点があることも見えてくる。社会的に排除され、役割や誇りが奪われ・喪失した人ほど、ゴミを溜めたり、アルコールやギャンブル、家庭内暴力などに依存したりしやすい脆弱性を抱えている、ということである。これらの共通点を、「社会的環境との相互作用の中で、脆弱な個人が排除された結果として表出する課題」と受け止めるか、「心の弱い人・性格が歪んだ人の自己責任」と受け止めるか。これは、事実ではなく、価値判断である。だが、非合理の人に対して、「あなたは非合理だ」と同語反復的に糾弾することと、同じ人に「あなたの中の合理性には理解できる部分もある」と共感することと、どちらが、何に対して有効だろうか?
<誰の何をどうしたいのか?>
「心の弱い人・性格が歪んだ人の自己責任」と、「社会的環境との相互作用の中で、脆弱な個人が排除された結果として表出する課題」という二つの価値判断。これは、「誰の何をどうしたいのか?」という問題と結びついている。
「心の弱い人・性格が歪んだ人の自己責任」というラベルは、その裏側に、「そう査定する私自身は、心は弱くなく、性格も歪んでいない」という査定基準が潜んでいる。つまり、「あたなが悪い」という裏側には「私は悪くない」という価値判断が入っている。それ自体が悪いとか良いとか言いたいのではない。だが、他人は、「あなたが悪い。私は悪くない」と最初から決めつけている人の意見に、虚心坦懐に耳を傾けるだろうか。その上で、行動変容を考えるだろうか。私なら、自分の価値前提や合理性に耳を傾け、理解してくれる努力をしない相手の言うことは、信用できないだろう。それは、自分自身の価値前提や信念を認めない、つまり自己否定されている、と感じるからだ。
もちろん、「ゴミ屋敷」の近隣住民は、その悪臭やゴキブリなどで、大変な迷惑を被っている。それを我慢しなさい、と言いたいのではない。ただ、本当に解決したければ、「ゴミ屋敷」の主が、溜まったゴミを何とも出来なくなってしまった内在的論理を理解することからしか、始まらない。どのような悪循環の「結果」としてゴミが溜まったのか。その理解があればこそ、悪循環を超えて、好循環に漕ぎ出すきっかけが見つかるのだ。ある人は、いつも声かけをしてもらったり、バス旅行に誘ってもらえるのが、孤独から抜け出すきっかけ、かもしれない。別の人は、じっくり話を伺った上で、本人の気持ちの整理をしながら、毎週定期的に自宅訪問を繰り返して、ちょっとづつ片付ける方が良いのかもしれない。ご本人なりの「合理性」を認めた上で、それ以外の「合理性」もあり得る、と本人が納得した上で、支援する人と共に、別の合理性を探すことで、悪循環から抜け出す事が可能なのかも知れない。
繰り返しになるが、「心の弱い人・性格が歪んだ人の自己責任」という価値判断を、たとえあなたが持っていたとしても、「困難を抱える人」と接する際には、一旦その価値判断から自由になる必要がある。この社会のマジョリティが持っている弱肉強食・自己責任、という新自由主義的な価値判断で、落ちこぼれだ、と烙印を押され、自らもそう位置づけてしまった事により、「困難を抱える人」という状態から抜け出せない人もいる。その人に、「あなたは困難な人だ」とラベルを貼ることで、自分の価値観を相手に押しつける事になり、相手はあなたに対して「そういう価値観を押しつける人」として、忌避や激怒、反発などの感情を抱かせることになる。そこから、感情癒着状態となり、問題は膠着する。私は、「モンスター顧客」などと言われる人の内在的論理の中にも、この相互関係がある場合も少なくないのではないか、と感じている。
そこで大切なのは、誰の何をどうしたいのか、という問いである。「私の信念を揺るぎないものにしたい」のであれば、相手を糾弾するだけで、十分である。だが、「相手の行動を変容させたい」のであれば、このアプローチは全く非合理的である。人は説得されても、自分自身が納得しない限り、行動は変容しない。相手の納得を導く為には、自分の価値前提は置いておいて、相手の価値前提を理解し、その相手の価値前提が受け入れられる何かを一緒に構築し、少しずつ、問題や争点、悪循環になっている現状から移動できるような手助けをすることが、最も合理的である。「私は正しい」と言いたければ、「あなたは悪い」と言うだけで良い。でも、「あなたに変わってほしい」のなら、まずは私自身の相手に対するアプローチを変えなければ、相手も変わらないのだ。
他人を変える前に、自分が変わる。
月並みな結論だが、本気で他人や社会を変えたければ、この大前提に戻るしかない。ただ、それは自分を押し殺したり、卑屈になったりせよ、という訳ではない。相手の内在的論理を理解し、「対象を突き放した上で」「われわれにとっての意味を明らかに」して、その「分析が当事者にどう見えるかを明らかにする」という、あなたと私の「視座の往復」を、他ならぬ読者であるあなた自身が出来るか、が問われているのである。これは、国際情勢の困難、だけでなく、ある支援対象者の困難、を読み解く上でも、必要不可欠だと私は感じている。それが、私自身にとっての「他者」との出会いであり、この私の中での「内なる『他者』との出会い」という試行錯誤こそ、もっとも価値あることだ、と感じている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。